一杯の誘惑、なお抗し難く (第四話)   

 都心に向かう朝の通勤電車内は、身動きする余地も無い程の混み様なので、床まで倒される心配が無い分、寧ろ気楽に身を任せていられた。
 僕の記憶違いでなければ、僕が経堂に住んでいた頃に利用していた小田急線の世田谷代田~下北沢間が、当時、最も混雑の度合いが酷いと言われた区間だったのだが、その電車内での圧迫感や周囲の客との密着度ときたら、駅に着いて新しい客が乗り込んで来た時や、電車の加・減速時、カーブに差し掛かった時など、巨大な血圧計のマンシェットを胴体に巻き付けられ、容赦なく空気を送り込まれている様な感覚で、人の身体ではなくマッサージ器か何かだと空想していれば結構快感でもあったし、降車後には、かなりの解放感を味わえた。
 しかし、長年に渡って毎日のように満員電車の中にいると、時には理不尽な目に合うもので、それ程混んでいる時ではなかったが、一度、痴漢に間違われたことがあった。
 痴漢の被害者は僕の隣に立っていた女性だったのだが、僕を訴えたのは被害者ではなく、僕の後ろに立っていた善意の第三者の男性である。察するに、女性が隣に立っている僕をチラチラと見ていたので、後ろの男性が僕を痴漢と勘違いして威嚇し、抑えようとしたのだ。
 しかし、僕は何が起こったのか全く理解出来ずにキョトンとするばかり。痴漢に遭っていたと思われる当の女性は終始俯いて何も言葉を発せず、幸か不幸か電車は終点に着いて人の流れに押され、そのまま全てうやむやになるという結果になったのである。
 あれは誰が悪かったというのだろうか。当然、痴漢をしていた者がいたとすれば、その本人が一番悪いのだろうが、何も持っていない手を下げていた自分も悪かったのか、それとも、犯人が誰かを正確に見極めずに行動した男性が悪かったのか。或いは、痴漢の手を自分で掴まなかった被害者の女性が悪かったのだろうか。
 結局、良い目を見たのは痴漢の真犯人だけという不条理である。
 満員電車で座れなかったとしたら、一番居心地が良かったのはドア際である。この場所を確保してさえいれば、大勢の乗り降りがあったとしても、自分はほとんど動く必要も、奥に押しやられる恐れも無いし、支柱などに寄り掛かっている事も出来る。また、荷物を網棚に上げれば両手が空くので、読書をするのも楽だ。そして何よりも、自分が降りる駅に着いたら、すぐに降りられるのである。
 その為、ドア際を確保できるかどうかという事は、精神衛生上、かなり重要であった。

 東京メトロ銀座線の虎ノ門駅と、同じく銀座線の他、JRと浅草線が通っている新橋駅とのちょうど中間辺りに、西新橋という地域がある。
 新橋側から行くと、下を都営三田線が走っている日比谷通りから先が西新橋。南は御成門中学校までで、道路ひとつ隔てた御成門小学校は芝公園となる。西は外堀通りの西新橋一丁目交差点から南下し、虎ノ門ヒルズの前をかすめて行く都道301号線までで、その先は虎ノ門。北は、外堀通りを越えて2ブロックまでは西新橋なのだが、そのエリアにあるりそな銀行は「虎ノ門支店」を、三井住友銀行は「日比谷支店」をそれぞれ名乗っているので、同じ新橋でも「西」が付くと、通りが良くないと判断されているのかも知れない。しかし、郵便局はさすが、「西新橋郵便局」である。
 因みに、三井住友銀行日比谷支店は以前、外堀通りを挟んで反対側にあったが、そこも日比谷ではなく、もちろん西新橋である。住所地で「日比谷」を冠しているのは「日比谷公園」だけであり、「日比谷」という住所地は、現在は存在していない。
 僕が西新橋で働いていた90年代の終わり頃、現在の虎ノ門ヒルズの前辺りから西新橋側に路地を2本入った角に、「大雅」というラーメン屋というか、中華屋があった。
 その当時、虎ノ門ヒルズは第何番目かの森ビルだったはずで、環二通りもまだこの辺りは整備されておらず、大雅があった場所は、一方通行の細い路地が交わる小さな十字路だった。
 この辺りには、昼間は定食屋、夜は小料理屋兼居酒屋といった雰囲気の「錦」や、洋食屋の「Dove」、喫茶店の「SAMSON」が当時からあり、休憩時間をゆったりと過ごしたい連中には、それらの店の方が人気があった。
 また、外堀通りや日比谷通りまで出れば、もっと色々な店があったのだが、僕はこの大雅が随分気に入り、会社の近所という事も手伝って、週に3~4日は通っていた記憶がある。
 別に、他の店と比べてこの店が特別美味いとか安いとかという訳では無かったのだが、昼時には味の強い、こってりとした中華で腹を満たしたいという気持ちがあった。
 そして、恐らく同じような考えを持っていたであろう、近所のサラリーマン達がこぞってこの店に集まり、昼時はいつも行列が出来ていたのである。
 多少並んでいても客の回転は早く、すぐ順番が回って来るのは分かっているので、躊躇なく列に並ぶ。厨房を囲むカウンターと、小さなテーブルがいくつかあるだけの狭い店に長居するサラリーマンなど、いないのである。
 中華鍋の肌と中華オタマの縁がぶつかり合い、擦れ合う、トーンの高い金属音や、炒め油の上で野菜の水分が弾ける、雨脚の様な騒音に耳を委ね、油の焼ける匂いや、色々な調味料が放つ香りを鼻で感じ、料理が出来上がっていく様子を頭の中で想像しながら、隣の客と肩が触れ合うくらい狭いカウンター席で、注文した食べ物が出て来るのを待っている時間は、暫し仕事のストレスから心を解放してくれ、憩いを与えてくれた。
 これ程までに僕の心に大雅が残ったのは、昼食だけではなく、夕食もかなり世話になった事にも原因がある。会社で残業があるときは、ほぼ決まって大雅に出前を頼んでいたからである。
 現在では、人手不足の為に、出前をやっている飲食店は少ないだろうが、どの程度の区域までかは分からないが、大雅は出前もやっていた。
 夜8時頃、岡持ちを掲げた大雅の店員が「毎度」と挨拶して部屋の入口に姿を見せたら、残業のメンバーはひとまず手を止め、休憩に入る。入口の手前に設置された低いロッカーの上に、ラップをかけられたラーメンやチャーハン、カレーライスなどが並べられていく様子を見ると、ほっと一息つけたものである。

 それにしても、なんと残業の多い仕事だったことか。
 休日出勤までは滅多に無かったが、平日に関しては、もはや定時という概念の無い労働環境であった。
 残業の主な原因は、業務の進捗状況をチェックするミーティングが、通常業務を中断して頻繁に行われる事や、自分の仕事が一段落着いても、同じ部署で誰か一人でも仕事が終わらずに残っていたら、手伝わずに帰る訳にはいかないという雰囲気がある事、いわば縦と横、両方向のしがらみが生み出す非効率性にあった。
 縦の繋がりに於いては、仕事の連続性よりも部下の統制に躍起となっている上司に対して内心不満を持ちながらも、自分が上に立った時にはどうかとと考えると、同じ様にしない自信が持てない。
 横の繋がりに於いては、残業を断って自分だけ帰ってしまうと、人間関係の上で孤立してしまう。それだけは避けておきたいという保身の気持ちを、自分の仕事が終わらない時には助けて貰えるからお互い様だという、組織人としてまっとうに見える様な口実をもって納得させなければならない。
 そんな葛藤の日々の中で、唯一の楽しみだったのが、店屋物のラーメンであった。疲弊した精神と肉体に入り込んでくる、この味の濃い、こってりとした、香ばしい中華屋のラーメンは、昼間の快活で人懐こい風情とは全く違う、静かで暴力的な魅力を湛えていた。

 まったく、あの味は素晴らしかった。全ての調理は、出来上がってから届けられるまでの時間経過を考えてなされているはずだが、当然、店で出来たてを食べるという、一番良い状態には及ばない。
 スープはそこそこの熱さを保ってはいるが、麺は当然のように伸びている。また、スープがこぼれるのを防ぐ為に丼に掛けられたラップを剥がすと、そのラップと丼の隙間に吸い上げられていたスープが淵から外に滴り、丼を持つと手にスープが付いて、ベトベトになってしまう。
 しかし、そんな些細な事はさて置き、スープを幾分吸って伸びた麺は、それはそれでいい味を出していた。麺類が好きな人の大半は、硬めの茹で上がりで歯応えがあった方が良いというが、スープを吸い、その塩味と香味を内部に取り込んだ麺もまた、旨味がある。
 それに加えて、残業でクタクタになった身体と心には、そんな幾分くたびれた麺の歯応えの方が丁度良かったのである。
 
 新橋という、巨大なオフィスビルと雑多な飲み屋街が隣り合わせになっている大きな街と、虎ノ門という、背後にこの国の中枢とも言える霞が関が控える厳つい街に挟まれた、小規模な事務所ビルが並ぶこの町で働いている間、僕は食事の大半を、この大雅で摂ったことになる。
 たまたま勤めていた会社の近くにあったというだけで通った食堂でも、長く通うと親しみが湧き、その土地やその当時の記憶と共に心に染み付くものである。
 その会社を辞めてから数年経ったある日、たまたま用事で近くを通り掛かったので、少し寄り道をして大雅まで行き、懐かしいというには早過ぎるが、それなりの感慨を抱きながら、ラーメンを啜ってみた。
 しかし、僕の舌は最早、胸を塞がれるような葛藤と共に味わった、あの日々の味を再現しなかった。

 それからまた数年が経ち、当時勤めていた会社が既に無くなっている事を人伝に知った時は、特に訪ねてみようという考えは湧かなかったが、それから更に十数年の時が経ったある日、東京に行く機会があり、夕方、新橋から西新橋まで歩いて行ってみると、付近の様子は一変していた。
 大雅があった四つ角は影も形も無く、狭い路地は、目の前に横たわる車道に沿って作られた広い歩道に取って代わられていたのである。
 当時の面影を多少残している路地から、大勢の人々が行き交う歩道に出ると、右側の視界の遥か頭上に、虎ノ門ヒルズの巨体が異次元との境界を示すように立ちはだかっている。まさに、歩道に一歩足を踏み入れた所から先は、全く違う場所の様であった。
 歩道の手前も、昔あった建物が幾つか無くなり、新しく小奇麗な店に変わっていたが、歩道から一本手前の路地に面した「錦」は、その年代を感じさせる壁を露にして、その少し先にあるDoveやSAMSONと共に、変わらずに生き残っていた。

 感慨に耽りながら慣れ親しんだ界隈を抜け出し、西新橋の見知らぬ表通りを暫し歩きながら、また一つ、記憶に染み込んでいた味が、訪ね得ようも無い彼方に去ってしまった事を想った。

                          第四話・完

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# by roseagainplz | 2017-05-19 15:18 | 随筆 | Comments(0)

一杯の誘惑、なお抗し難く (第三話)   

 池袋から西武池袋線の各停に乗り、練馬を過ぎて目白通りの高架を潜ると、間も無く中村橋という駅に停車する__
 こう書くと、奇異の念を抱く人も多いかも知れないが、僕が中村橋に住んでいた頃は、この西武池袋線と目白通りの立体交差は、上下が逆だったのである。
 2001年3月にこの入れ替え工事が行われた時には、僕は既に品川区に引っ越していたが、幹線道路の通行を迂回路に回しておいて、鉄道の終電後に場所をそっくり入れ替え、どちらも次の朝から運用を再開させるという、長期間に渡る綿密な準備の末に行われた手品の様な大工事は、当日のニュースで見る事が出来た。
 僕が中村橋に住み始めた当初、西武池袋線はまだ高架上ではなく地上を走っていて、駅の東側を通る中杉通りにあった踏切りは、朝夕の多いときは上下線合わせて7本の電車が通過しないと開かなかった。そして大抵の場合、7本目は無人の回送電車だったので、余計にイライラしたものである。
 その後数年して、線路を高架にする為の工事が始まり、駅はシートで覆われて足場が組まれ、そこかしこに工事用の資材が並べられた。
 そして先ず、上り線が高架上を走る様になり、それだけで踏切が開かない時間は激減し、作業場や工事現場の様な雰囲気が好きな僕は当時、『この状態で工事が終わっても良いんだが・・・』などと思ったものである。
 やがて駅の工事は終わり、中村橋駅は上下線とも高架上を電車が走るようになった。
 駅は高架になる前から上下線のホームが別々で、双方を結ぶ地下道や跨線橋の類は無かった。その為、中杉通りの北の終点辺りに住んでいた僕は、下り線で池袋から帰って来て改札を出てすぐに、電車の通過が済むまで踏切で待たされていたのだが、工事後は、そのまま高架を潜って帰れる様になった。
 しかしそれよりも何よりも、高架上を電車が動き出す時の重く規則正しい振動音を、地元の駅でいつでも聞けるという事が、僕にとっては堪らなく嬉しく、胸が弾んだものである。
 
 ところで、「中杉通り」という名前は、僕は中村橋と杉並を結んでいるからそう呼ばれているとずっと思っていたのだが、どうやら中野と杉並を結んでいる為というのが定説らしい。当時は、阿佐ヶ谷以南にも中杉通りが続いている事など、全く考えが及ばなかったのである。
 それはともかく、この通りは阿佐ヶ谷駅から西武新宿線の鷺ノ宮駅を経て、中村橋駅の手前で千川通りと交差するまでは道幅が広く、交通量の多い道路なのだが、その先からは一方通行になって急に道幅が狭まり、駅の北側に出ると、地元の商店街へと風景が一変してしまう。そして、その賑わいが途絶え、少し寂しさを覚える様な界隈を通り過ぎると、突然、だだっ広い目白通りにぶつかり、そこが終点となる。
 そんな中杉通りの、中村橋駅と阿佐ヶ谷駅の間の一本道をバスが通っていて、中村橋に住んでいた頃、よくそれに乗って阿佐ヶ谷まで行き、ホープ軒でラーメンを食べて帰って来たものである。
 或いは、当時勤めていた会社があった江東区の門前仲町から、総武線乗り入れの車両を選んで東西線に乗り、阿佐ヶ谷で一杯食べてからバスで帰るという寄り道をする事も、たまにあった。
 阿佐ヶ谷の店を知ったのは、第一話で書いた通り、千駄ヶ谷のホープ軒の話をした友人が見せてくれたチラシでだったが、なるほど阿佐ヶ谷と千駄ヶ谷ではラーメンの雰囲気が全く違っていて、阿佐ヶ谷の方はスタンダードで食べやすい、昔ながらの中華そばという感じだった気がする。
 店内には、日本の懐メロかグループサウンズ風の音楽が流れ、幾分小ぶりの丼から、シンプルでいて、しかし十分にコクのある豚骨醤油スープが絡んだ麺を啜り上げて食べていた記憶があるのだが、一昨年に東京に行く機会があって久々に訪ねた時は、ラーメンそのものだけでなく、店全体の印象が当時の記憶とは全く違っていた。
 阿佐ヶ谷にはホープ軒以外の目的で行った事は無いので、店は間違い様が無いのだが、これだけ印象が違うというのはどういう事だろうか。単に僕の記憶が、その後の様々な体験によって上書きされてしまったという事なのだろうか。
 自分ではしっかりと記憶していると思っていても、人間の記憶とはかなりあてにならないものであるという事を、改めて思い知らされたものである。

 その中村橋と阿佐ヶ谷を結ぶバスの、中村橋側の終点の辺りに、僕が引っ越して来た頃、小さなラーメン屋があった。名前はもう憶えていない。
 最初にその店に入ったのは、休みの一日、たまには地元の町でのんびりと過ごしてみようと考えた時で、翌週の為の食料の買い出しを西友で済ませて千川通りに出たところで、ちょうど通りの反対側にある、その店の暖簾が目に留まったのである。
 見るからに地元の食堂然とした雰囲気のその店は、昼からビールでも飲んでラーメンを啜ろうと思っていた僕の気分にぴったり合っている様な気がした。
 短い暖簾を潜り、古い引き戸を開けて中に入ると、外観からのイメージ通り、昔ながらの食堂そのものといった雰囲気の店内にはテーブルがいくつか並べられ、老夫婦が協力し合って調理と客の案内をこなしていた。
 地味で古臭いながらも、良く整頓されていて無駄なものが無く、簡素で落ち着いている雰囲気が、店を切り盛りする老夫婦をそのまま写した様な佇まいである。
 メニューもまた、単純明快。ラーメンと上ラーメン、そして、それぞれの大盛りだけ。
 僕は一人客だったが、店主のおじいさんの案内に従い、空いているテーブル席に座った。そして、メニューを見て僕が発した一言が、良くなかった。
「ビールは無いんですか?」
「そんなもん無いよ」
 おじいさんには、ビールを飲みながらラーメンを食べる様な人間に対して、明らかに軽侮の念があった。鼻で笑うようなニュアンスを感じ取った僕は、面喰ってしまった。
 取り敢えず「上ラーメンの大盛り」を注文して待つ間も、『休みの日に地元で昼から一杯ひっかけるのも気分が良いだろうと思っていたのに、よりによってどうしてこんなへんつくなおやじの店に入ってしまったのだろう』という後悔の念でいっぱいだった。
 そして暫く待った後、今度はおばあちゃんがお盆に乗せて運んできたラーメンを見て、驚いた。
 白い丼に張られた幾分黄色味掛かった透明なスープに、肉団子と白ネギが浮かべられたそのラーメンは、今まで見た事もない様な淡い色彩と、香ばしく甘い匂いに包まれていたのである。
 そして、その良い匂いを発している綺麗なスープを飲み、麺が唇を通過していく心地よい感触を味わっているうちに、ビールを飲みながらこれを食べようとしていた自分が愚かしく思えてきた。こんな繊細なラーメンを味わうのに、アルコールの刺激と酔いは邪魔でしかない。
 僕がそれまで好んで食べていたラーメンは、こってりしていてボリュームがあり、何よりもチャーシューが旨いのが条件だった。それほどラーメンばかりを食べ歩いていたわけではないが、ラーメンを食べるならチャーシューが旨くて腹いっぱいになるのが良いという様な、かなり偏った嗜好を持っていたのである。
 しかし、その時目の前にあったラーメンは、紛れもなく僕の好みとは真逆の代物で、量は大盛りでそこそこあるが、透き通ったスープにチャーシューではなく、肉団子が乗っている。
 最初は戸惑ったが、一口啜ってみると麺を掬う箸が止まらなくなり、見た目でがっかりさせられた肉団子も、涎が口から溢れ出てしまうぐらい、旨味に溢れていたのである。
 スープにはおそらく鶏ガラと野菜、煮干しなどが使われ、濁りを出さない様に丹念に炊かれていたのではないだろうか。少し縮れた細めの麺に絡んで口の中に入って来る、その透明な液体を舌の上に留めて味わい、噛み砕いた麺と共に飲み下す時の心地良さは、このひと時は他の事に捕らわれず、一心に集中する事を要求している気がした。
 感動とも言えるひと時が終わりを告げると、暫くは静かに余韻に浸り、やがて、その店に漂う雰囲気にすっかり感化された様にゆっくりと支払いを済ませ、静かに引き戸を開け、僕は千川通りの明るい歩道に戻った。
 この時の事は今でも僕の心にしっかりとした印象を残していて、透き通った端正なラーメンに出会うと必ず、この店のラーメンが頭に浮かんで来る。
 別に、比べてどちらが優れているかという事ではない。おそらく、かなり美化されているであろう僕の記憶の中の一杯と、現実の一杯を比べる事など、何の意味もありはしないのだ。ただ一瞬だけ、あの時のラーメンの味を思い出し、懐かしい想いに触れられれば、それで満足なのである。
 
 その店には、その後数回行き、毎回「上ラーメンの大盛り」を食べた。正確に何度という事までは憶えていないが、いつの間にか、行っても開いていない事が多くなってきたのである。
 その当時の僕の自宅は、中杉通りの終点である目白通りとの交差点を抜け、それに続く細い路地の先にあったのだが、目白通りとの交差点に面して、当時たまに顔を出していたShimaという小さなスナックがあった。
 店の常連にラーメン好きの人がいて、そのラーメン屋の事を聞いてみた事がある。
 「あの店は、昼時は並んで食べる事もあるくらい人気があるから、心配しなくても無くなる事はないよ」
と、その人に言われて安心していたのだが、結局そのまま店が開いているのを見る事は無く、いつの間にかそこにラーメン屋があった事さえも判らなくなるほど痕跡は消え、年月が経つと共に、僕の頭の中からも正確な記憶が失われてしまった。
 僕は、何度も通った店でも気軽に店の人と会話を交わすほど社交的な性格ではないので、あの老夫婦にどんな事情があったのかは遂に知る事は出来なかった。おそらく、年を取ったので区切りをつけて引退したのだとは思うが、これが最後と自覚して食べる一杯を味わう事が遂に出来なかったのが、今でも心残りである。

 中村橋での生活は、ちょうど10年間に及んだ。その前に1年ほど、隣の富士見台にも住んでいたので、この界隈で11年以上も過ごした事になる訳だが、その間、西武池袋線が高架になり、富士見台にいた頃に住んでいたアパートのすぐ近くに、練馬高野台駅ができた。
 20年以上の時が過ぎ、一昨年、千駄ヶ谷と阿佐ヶ谷のホープ軒で続けてラーメンを食べた後、あの頃と同じ様に中村橋行きのバスに乗り、懐かしい街を訪ねてみた。
 中村橋に降り立つと、まず周囲の街並みの変化に驚かされた。
 高架下に綺麗なショッピングモールができ、三井住友銀行の前の路地の奥にあった西友が、その中に入っている。千川通り沿いでわずかに記憶に残っていたモスバーガーも無くなった様だ。この付近で全く変わっていないと感じたのは、まだ富士見台にいた頃に痛ましい事件のあった交番ぐらいだった。
 そのまま千川通りを歩いて富士見台に立ち寄ってみた。こちらも中村橋同様、高架下が新しい商業施設になり、駅前はかなり様変わりしていたが、石神井方面に向かって商店街を歩いていくと、以前とそれ程変わっていない事に気付かされた。
 途中、味の横綱という、僕が住んでいた頃はまだ出来て間もなかった店が、見事に年季の入った町の中華食堂になっていた事に堪らない喜びを感じ、そこで久しぶりにタンメンを食べながら、店主と少しだけ当時の話をした。
 その後、中村橋に戻ってまた商店街を散策し、真ん中辺りにある居酒屋でまた懐かしさに浸りながら夕食を摂る。つくづく僕は、懐かしさに飢えているのだという事を思い知らされた。
 帰路、西武池袋線の上り電車で池袋に向かった。
 電車が動き出して間も無く、目白通りと西武池袋線の立体交差で目白通りが上を通っていた頃は、目白通りから遠く豊島園のフライングパイレーツが揺れているのが眺められた事を思い出し、電車の中から覗いてみたのだが、既に日はだいぶ傾き、過ぎし日の懐かしい景色を眺める事は叶わなかったのである。

                         第三話・完

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# by roseagainplz | 2017-04-10 14:35 | 随筆 | Comments(0)

一杯の誘惑、なお抗し難く (第ニ話)   

 僕は、生まれてから高校3年までの18年間を、東北地方の田舎町で過ごした。自宅の隣の家1軒隔てた先から、1本の川を経て遥か山際までずっと水田が続く、典型的な農村である。
 家族と共に過ごした年月の中で、特に食事に於いて楽しいと思った記憶は、ほぼ無い。取りたてて嫌な事が無く済んだというのが良かったと思える程度であり、今思い返しても "全く楽しくなかった" という感想しかない。
 その理由のほとんどは、僕が食べるのが遅く、その為、父親にしょっちゅう怒られた事にある。
 食べるのが遅くなる原因は、当時、僕自身も明確には気付いていなかったし、親にしても、単に僕がボケっとしているせいだと思っていただろう。結局、自分がなぜ食べるのが遅いのかという事について、具体的な原因に気付いたのは、今からそれほど昔の事ではない。
 まず、先に自覚したのは、知覚過敏である。
 当時はこの事を、親も含めて他人に話した事は無かったが、リンゴやトマト、長ネギなどをまともに噛むのが辛かった。辛かったというより、出来なかったと言う方が正確である。
 トマトのヘタに近い黄緑色の部分に歯が入るさまや、ミカンやレモンなどの粒々が弾けるさまなど、想像するだけで身震いがしたし、長ネギにしても、火が通って柔らかくなっていたとしても、まともに噛むのは苦痛であった。それらをどうやって飲み込める状態にするかといえば、表面部分を浅く噛めるだけ噛んだら、後は口内の天井に舌で押し付けて、懸命に潰すしかないのである。
 もっと酷い例としては、食事時ではないが、歯磨きの後などで口をゆすぐ際、気泡が口内に当たる感触が気持ち悪いので、水を口に含むときは出来るだけ口をすぼめて空気が入らないようにしていたものである。
 これらの内いくつかは、年月が経つと共に少しづつ克服出来たが、ほとんどは現在に至ってもまだ、消しようの無い嫌悪感が付きまとっている。
 そしてもう一つが、口の中に複数の食べ物を一緒に入れられないという事であった。つまり、一つのものを口に入れたら、それを嚙み砕いて完全に飲み込むまで、次の食べ物を口に入れられないという事であり、その結果、当然食べるのが遅くなるのである。
 自分自身では決してのんびり食べているつもりは無く、厳しい父親が怒り出さないうちにさっさと食べ終えてしまいたいのに、知覚過敏によって口に入れたものが上手く噛めず、その為に次のものがなかなか口に入れられない。終いには、急ごうとすればするほど緊張により唾液が出なくなり、口の中が乾いて余計食べるのが遅くなるという悪循環。
 しかも、自分が食べるのが遅いという事は言われて理解はしていても、その原因が自分の性質にあることなど、当時は全く分からず、それを直す手立ても思いつかなかった。
 この為、家族での食事は、僕にとっては苦痛以外の何物でも無かったのである。
 しかしある日、そんな僕の八方塞がりの状況に、一筋の光が差し込んで来た。
 その日の食卓に出されたのは、出前で取ったうな丼。この、鰻の蒲焼きがご飯の上に乗せられた食べ物こそ、僕にとっての救世主だったのである。
 それは、ご飯とおかずを一緒に口の中に入れる事、一緒に噛んで味わう事の素晴らしさを僕に教えてくれた。その結果、僕はその時の食事に於いて見事に父親より早く食べ終えて驚かせたばかりではなく、それ以降の食事に於いても、僕の食べるスピードは他人のそれと比べて特に遅くはなくなったのである。
 このうな丼の記憶が、幼い頃の家族との食事に於いて、僕が楽しいと感じた数少ないものの中の一つであり、恐らく一番のものであろう。

 そんな時期に読んでいた漫画雑誌に、かなりの長期間、ラーメンをテーマにした漫画が連載されていて、僕にとってはそれが食に対して興味を持つ端緒になった気がする。その漫画は、ラーメンのスープや具材の作り方、麺打ちの工程などをかなりつぶさに描いていて、それによって僕はラーメンという食べ物を知ったと言っても過言ではない。
 しかしその反面、この漫画によって、ラーメンとはこういう物という固定観念を植え付けられる結果ともなってしまった。
 例えば、その漫画ではスープの出汁を、鶏ガラと野菜を煮込んで取っていたので、後に豚骨ラーメンというものを知った時、スープの出汁を豚骨から取るのは、九州地方の特定のラーメンだけだと思ってしまったのである。
 しかし、その漫画が僕にとって最も重要だった点は、美味しそうな匂いが本当に誌面から漂い出て来る様な食材や調理風景の描写によって僕の想像力が搔き立てられ、夕食を腹に詰め込む為の空腹感をもたらしてくれた事である。
 豚骨ラーメンが一般に浸透し、インスタントラーメンまで発売され出した頃から現在に至るまで、醤油、塩、味噌、豚骨という分類がなされている。当時は何気なく受け入れていたのだが、後になって考えてみると、以前からある醤油、塩、味噌は全てカエシの分類であるのに対し、豚骨というのは出汁の分類である。知識のおぼつかない当時の自分には、豚骨ラーメンの味付けは塩なのか何のか、いくら頭を働かせても解けない疑問であった。
 九州の白濁した豚骨ラーメンも、その出汁の色の濃さの為にカエシの醤油の色がはっきりと出ないだけで、基本は醬油ラーメンであることが分かったのは、かなり時が経ってからである。
 それと同じ頃、ラーメンは鶏ガラスープだけではなく、豚骨で取らたものや、両方を同時に用いたものもかなり一般的で、自分自身もその時点で既に色々な場所で食べていたという事も知った。
 例えば、札幌ラーメン。
 僕は高校を卒業して北海道の大学に進学すると同時に、親元を離れて旭川で生活を始めた。大学受験の為に初めて青函連絡船で北海道に渡った時、札幌でラーメン横丁に立ち寄り、ラーメン屋を3軒ハシゴした。
 店は自分で買った観光ガイドブックで探したが、その店を選んだ根拠については全く憶えていない。札幌ラーメンらしい味噌ラーメンの店が2軒と、何故か醤油ラーメンの店が1軒。しかも1軒はラーメン横丁から外れていた気がする。
 そこで食べたラーメンの味は、正直に言うと全く覚えていない。35年も前の話である。ただ、当時はまだ、ラーメンのスープは全て鶏ガラ出汁だと思っていた時期なので、実は豚骨から出汁が取られていたそのスープは、それまで食べたラーメンよりもかなりコクが感じられたという事と、油浮きが多かったという印象が残っている。
 しかし、当時の僕の記憶のほとんどは、北海道の冬が自分が生まれ育った東北と比べても段違いに寒く、特に風が全く違ったという事と、薄暗い店の壁に、誰のものとも判別がつかないくらいにくすんだサイン色紙がたくさん貼られていた事ぐらいである。

 さて、僕の北海道での生活の拠点は旭川であった。旭川でラーメンと言えば、旭川ラーメンである、と言いたいところだが、僕が旭川で暮らしていた80年代初頭から中頃に掛けての間に「旭川ラーメン」という単語を聞いた事はただの一度も無い。
 もちろん旭川にいる間、気に入ったラーメン屋はあって、そこで幾度となくラーメンを食べたのだが、それが「旭川ラーメン」という風にジャンル分けされたものだとは言われていなかったし、僕の周りでそんな話題が出た記憶は一度も無い。ただ、
 「北海道のラーメンは、札幌の味噌ラーメンが有名だけど、函館は塩で、旭川は醤油が主流なんだよ」
と教えてくれた人はいた。
 しかし結局、「旭川ラーメン」という呼称を初めて聞いたのは、その後、東京に移ってかなり時が経ってからである。恐らく、品川駅近くに「品達」が出来た時に、当時、旭川ラーメンの店が入っていて、そこで初めて名前を知ったと記憶している。
 もっとも、その当時は札幌ラーメンと博多ラーメン以外のいわゆる「ご当地ラーメン」は、まだまだ名前が知れ渡っていなかったので、旭川でも特に地元のラーメンに名前を付けて売り出そうとまでは、まだ考えていなかったのかも知れない。他の多くのご当地ラーメンも、地元の人からは、いつまでも「中華そば」と呼ばれていたりするものである。
 初めて実際に旭川ラーメンを食べたのは、更に時が経って名古屋に住むようになってから、千種区にある梅光軒という店に於いてであるが、旭川にいた頃のお気に入りの店よりも、かなり洗練された印象を受けた。
 
 ここで、その旭川でのお気に入りの店について書いて置こうと思うのだが、店名がどうしても思い出せない。
 場所の記憶も定かではないが、日本初の歩行者天国と言われる買物公園の割と大きな交差点から、繁華街の6丁目とは逆の8丁目方向に曲がった所にあり、すぐ近くのレコードと楽器を扱う店に行ったついでによく寄った記憶がある。
 古くこじんまりとした木造りの店内で、茶色く濁ったスープに浸った麺をズルズルと啜ったのはよく憶えている。そしてそれは、それまでに食べてきたラーメンよりも格段にコクと旨味の多い、当時の知識の乏しい僕には、それこそ「何とも言えない」としか言い様の無い美味しさに溢れたものだった。
 当時は、一緒に入った友人達との会話に夢中で、店の雰囲気やラーメンを仕上げる様子などには全く関心を持っていなかったが、配膳はいつも店にいたおばちゃんが一人でやっていたと思う。
 このおばちゃんについては、面白い逸話がある。
 と言っても、この類の話は後に様々な場所で聞くので、その話を実体験として僕に教えてくれた友人自身が、本当にその時、その店で体験したものかは、今となっては多分に怪しい。
 曰く、その店のおばちゃんが、友人が頼んだラーメンを運んで来た時、丼を持つ手の指が淵からスープに入っていたので、
 「おばちゃん、指入ってるよ」
と指摘すると、
 「大丈夫だよ、熱くないから」
と言ったという。また、食べていたらラーメンの中にハエが入っていたので、
 「おばちゃん、ハエ入ってるよ」
と指摘すると今度は、
 「大丈夫だよ、死んでるから」
と言ったというのである。
 どうだろうか。いかにも昭和的な笑い話で、テレビのバラエティー番組でもそっくりな話をネタとして聞いた事があるのだが、これは30年以上も前に語られた話である。もしかしたら、これは本当にその時あった出来事で、それが広まったのではないかという気がしないでもない。
 それはともかく、大学卒業以来、北海道には一度も足を踏み入れていないので、その店や旭川市街、また、当時住んでいた場所など、今はどうなっているのかは全く分からない。
 果たしてあの時食べていた旨いラーメンが、時を経た現在、「旭川ラーメン」として市民権を得たのだろうか。
 そして、あの店は今でも存在するのだろうか。更に、十分に熱いはずのスープに指を突っ込んでも平気で、今のご時世では笑えない冗談を言い放ったあのおばちゃんは、今でも達者にしているのだろうか。
 すぐに飛んで行って確かめてみたいという衝動に、今でもたまに駆られる事がある。

                           第二話・完

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# by roseagainplz | 2017-04-04 16:09 | 随筆 | Comments(0)

一杯の誘惑、なお抗し難く (第一話)   

 あの時代が現在に於いてバブルと呼ばれるのは、その後に弾けるという結果を見たからであって、当時は誰もが「空前の好景気」と呼んでいた。そしてバブル崩壊以降は、調子が良いものに対して、すぐに”バブル”という冠詞を付けるのが、マスコミに於いては当たり前になってしまった。まるで、弾ける事を他人より早く口にする事が、自己の優秀さの証明にでもなるかの様に。

 1986、7年頃。
 そんな空前の好景気に湧いていたらしい東京に、僕は然したる実感も無く北海道から移り住んだ。就職ではなく、アルバイトの為である。
 当時の僕は、正社員として就職する気には全くなれず、アルバイトで適当に金が貯まったら何処かへ旅行にでも行こうというぐらいしか考えていなかった。いわゆるフリーター、又はプータローと呼ばれた類の人間であった。そんな考えでいても普通に稼いで生活できたという事が、僕にとっての "バブル” の恩恵に他ならないのだろう。
 初めて勤めた会社が、新宿御苑のすぐ裏手に当たる、渋谷区千駄ヶ谷の寂しい住宅街にある小さなマンションの一室に入居していて、他の部署に移るまでの数か月間を、そこと世田谷区経堂の寂れた自宅アパートとを往復しながら過ごす事になった。
 その会社の社長に、ある夏の日の残業の後、
「お前にちょっと旨いもん食わしてやるよ」
と声を掛けられた。
 その頃の僕は、生活費の中で食費が掛かり過ぎる事を嫌い、昼食は勿論、ほぼ毎日残業がある会社だった為、夕食の分の弁当も作って会社に持って来ていた。それに対して当時30代だった若い社長は意識が常に外を向いていて、たかが外食一つを取っても外的刺激として自己分析しなければ気が済まない性格だったので、誰かその辺にいる人間と、近所にある評判のものを食べに行ってみたかったのだろう。
 その時は、会社から少し歩いた所にある国立競技場の前まで連れ出された。
 当時、そこには数軒の屋台が並んでいて、そのうちの1番端にあったラーメン屋が、目的の旨いものを出す店らしかった。右端だったか左端だったかは、もう憶えていないが、屋台の庇に周囲の灯りが遮られた薄暗闇の中で暫く待ち、そして受け取ったラーメンをひと口すすった瞬間、みるみるうちに口内に涎が溢れ、肩から背中まで熱が伝わって行く感覚は、それまで味わったことが無いほど鮮烈だった。その時、生まれて初めて、目の前にある食べものに心を奪われ、心底美味しいと思う事が出来た気がしたのである。
 初めて食べたその屋台のラーメンは、全く繊細とは言えない、どちらかと言えばガサツで、油っぽい上にしょっぱく、しかしその全てが絶対に欠けてはならないもの、それだけで完成された集合体であった。
 目の前で行われている作業は、丼に濃い茶色のタレを入れて濁ったスープを注ぎ、そこに茹でた麵を浸して具材を幾つか盛り付けるだけである。しかし、そのひとつひとつがここに運ばれてくるまでに費やされた手間と時間が、作り手ではない者には想像もつかない質と量である事を、おぼろげながら思った。それだからこそ、その場で簡単に組み合わせるだけで完璧な集合体として完成させる事ができるのである。
 それほど鮮烈な印象を残したラーメンであっても、時の経過と共に具体的に記憶に残ったものは、味が濃くてギトギトとしたスープと、箸で持ち上げようとすればすぐ崩れてしまう様な、頼りないほど柔らかくて旨いチャーシューぐらいになってしまったが、僕が今でもその様な雰囲気を持ったラーメンに食指が動くのは、この時食べたものの印象がそれ程強いものだった為であるのは間違い無い。
 そして、その時社長が言った言葉も、かなり印象に残っている。
 曰く、食べ物屋を選ぶ時は、一軒だけポツンとある店ではなく、同業者が何軒か並んでいる場所に行け、と。
 つまり、特定の範囲内に一軒しか無い店には、選択の余地の無い近所の人々が集まって来てそこそこの商売にはなるだろうが、そういう店は大抵の場合それにあぐらをかいて切磋琢磨する事を止めてしまうから、遠方からわざわざ出掛けて行ってまで食べる程のものは出て来る訳が無い、という理屈である。
 それはその後、食べ物屋選びだけではなく、様々な選択に於いて基準の一つとなる要素があった事は確かだ。競争があってこそ、品質やコストパフォーマンスの向上が為され、それが利用者にも還元されるのである。
 その屋台街も、ラーメン屋だけではなかったと記憶しているが、全体的にかなり賑わっていて、商う物が違っても店同士の競争は当然あったであろう。他の店で食事をする機会は無かったが、あの中で客が入っていない店があれば、逆の意味で目立っていたに違いない。しかしその中にあっても、特にそのラーメン屋が一番賑わっていたという印象がある。
 雑多に置かれた椅子に座り、一人で、或いは連れとしゃべりながら、この広く薄暗い空間を共有する人々。その中に自分が存在した夏の夜が確かにあった事が、今でも宝物の様に自分の心の中に仕舞われている。

 それから暫くして、またその社長に誘われて同じ界隈に出掛けた時に入ったのが、ホープ軒である。この店もまた屋台の店同様、長く僕の記憶に残るものになった。
 年中無休の24時間営業で、店舗はビルの1~2階を締め、1階は立ち食い、グループ客用の2階席からの注文は、1階の厨房から専用の小さなエレベータで上げられるという構造。
 駅前の立ち食い蕎麦よろしく、不味くはないが、そう特別なものも出て来そうにないというイメージに反して、背脂の浮いたスープの表面を覆う多量のラードが、中から引っ張りだした太い麺に絡んでその表面を艶やかに染め、好きなだけ自分で盛ったネギと共に、それを口の中に啜り込むという、非常に根源的で魅惑的な食べ物であった。
 ただし、個性が強い分、それに馴染めないという人も多くいるもので、たまに友人を連れて行っても、気に入ったという反応を見る事は皆無だった。ラーメンそのものも勿論だが、店の雰囲気や周辺の環境に至るまで、許せるところ、許せないところや、その限度は人それぞれ、実に様々である。

 余談だが、千駄ヶ谷ホープ軒に関しては、今に至っても解けていない疑問がある。
 当時、ホープ軒に一緒に行った友人の一人は、千駄ヶ谷のホープ軒は、実は本当のホープ軒ではないと言っていて、数日後に見せてくれた当時のホープ軒のチラシにも、千駄ヶ谷店の名前が載っていなかったのである。当時、僕はそれを見て、あんなに旨いラーメンを作れるのなら別に名前など関係無く、独自の店名を名乗れば良いのに、と思ったものだった。
 しかし、今ではホープ軒と言えば千駄ヶ谷店を真っ先に挙げる人も多く、その時の事を思い出す度に、あれは何だったのだろう?という気持ちが頭を持ち上げるのである。
 ホープ軒に関してはもう一軒、阿佐ヶ谷店も思い出に残っている店であるが、それはまた後の機会に。

 最初に食べた屋台のラーメンと、次に食べたこの千駄ヶ谷ホープ軒のラーメン。どちらもシンプルだが人を惹き付ける力に溢れていて、思い出す度に食欲を掻き立てられるものであった。
 しかし、暫く時が経ってから近くに行く用事があり、国立競技場前の屋台街があったと記憶していた場所に立ち寄ってみたのだが、屋台街自体を見つける事は出来なかった。
 いや、僕の記憶が曖昧で場所を勘違いしていたか、或いは運悪く休業日だった可能性もある。ただ、それからまたかなり後になって友人から聞いたところに依ると、当時に於いて既に衛生上の理由から、屋台の営業は継続が困難な世情ではあったらしい。
 千駄ヶ谷ホープ軒の方は、この店も元は屋台だったと聞くが、ファンが途切れる事は無く、現在に於いても同地で変わらず繁盛している様だ。
 先年も夜行バスで東京に行った際、新宿に到着後そのまま千駄ヶ谷に移動してホープ軒を訪ね、午前5時の早朝から立ち食いラーメンを、思い出に浸りながら存分に楽しむ事ができたのだが、あの屋台で食べる機会は、結果的にあの夏の夜一度限りになってしまった。
 あれから30年にも及ぶ時が過ぎ、国立競技場の建物も解体され、周囲の景色も変化し、あの時勤めていた会社も既に無く、僕自身の味の嗜好も、恐らく相当に変わってしまった。
 今、あの時と同じラーメンを食べて同じ様に美味しいと思えるかどうかは分からないが、もう一度あの味に巡り会ってみたいと、たまに思うことがある。もしかしたら、今はどこかで立派な店舗を構えて、ホープ軒と同じ様に大いに繁盛しているかも知れない。それならば、全く不可能な事ではないだろう。
 しかし、今となっては、僕にとっての原点とも言うべきあの夏の夜は、最早訪ね得ようも無い忘却の底に埋もれてしまったのである。

                                   第一話・完

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# by roseagainplz | 2017-03-31 17:04 | 随筆 | Comments(0)