一杯の追憶 (第六話)   

 東急大井町線・中延駅の改札を出て目の前の通りを右に行くと、すぐに第二京浜国道に突き当たる。一方通行の細い通りは、片側3車線もある広い二国との交差点を渡った向こう側にも続いていて、パチンコ屋がある通りの左側は戸越、三井住友銀行がある右側は豊町に分かれてる。
 戸越と言っても、この辺りは有名な戸越銀座からはだいぶ離れている上に、この付近で一番大きな商店街は中延駅を挟んで反対側にあるので、この界隈は地元の人間以外、あまり足を踏み入れる事は無い。
 前話で、僕は便宜的に中延に住んでいたと書いたが、実際はこの細い通りの豊町側をもう少し奥に入った所にある、古いアパートに住んでいた。豊町という地名は、戸越や中延と比べて通りがあまり良くないので、住んでいる場所を聞かれると、どちらにしても中延という地名を入れないと説明がつかないのである。勿論、中延と言っても、中野と聞き返される事が度々あったが。

 アメリカでの同時多発テロの発生やITバブルの崩壊などにより、21世紀の幕開けは、多くの人にとって希望に満ちたものにはならなかったし、日本でも、バブル後の不良債権処理が足枷となり、2003年の初夏まで株価は下げ続けた。
 景気の低迷が常態化し、会社からの交通費支給がカットされる様になると、僕は通勤でもプライベートでも、ほぼ自転車で行動した。
 豊町に住み始めた頃、頻繁に出掛けたのは恵比寿や渋谷方面だった。中延駅付近から北に伸びる「スキップロード」というアーケード付きの大きな商店街を通り抜けて荏原中延駅の前を過ぎ、荏原から小山にかけての住宅街を走り抜けて林試の森公園の前をかすめ、なだらかな坂道を下って山手通りの「目黒不動」か「羅漢寺」という交差点に出る。
 そこから山手通りを中目黒まで行くのだが、その途中にいつも行列が出来ている店があった。毎回同じ時間に通っている訳ではないにもかかわらず、少ない時でも数人、多い時には数十人にまで行列が伸びている時もあり、店がまだ開いていない時間でも既にかなりの人数がたむろしている事が、しばしばあった。
 そして店の中からはいつも、豚肉を煮込んでいる事を想像させる甘い脂身の香りが、熱気と共に漂い出ているのである。
 山手通りに面した店の正面の壁に掛かる煤けた黄色のテントには、「ラーメン二郎目黒店」と黒文字で印刷されていた。
 僕は雑誌など全く読まないので、その時まではラーメン二郎という店がどれほどの有名店であるのかも知らなかったのだが、いつもこんなに並んでいては入る気が起らないというのが、最初に店を認識してから暫くの間抱いていた正直な気持ちであった。
 しかしある日、仕事帰りに店の前を通ると3人しか並んでいなかったので、すぐ順番が回って来るだろうと思い、入ってみる事にしたのである。
 引き戸が開けっ放しの店内は、空間のほとんどが厨房とカウンターで占められていて、壁際の通路は人がすれ違う隙間も無く、通り側に至っては、一旦外に出ての移動を余儀なくされる。
 入口にある券売機でプラスチック製の食券を買い、列が進むのを待っていると程無くして、着席している客の背中と壁の間をすり抜けて出て来た食後の客と入れ違いで、奥に入る様に促された。
 席に着いてからも、先客にラーメンが行き渡るまで暫く間があった。その間、店内や先客の様子を伺っていると、ラーメンが提供される直前に、店主と客との間で短いやり取りがある事に気が付いた。初めてだとかなり分かりづらいが、このやり取りを注意深く観察しながら、この店の特徴である無料の増量サービスを自分に最適化していくのが、この店の醍醐味なのである。
 幾つかの暗黙のルールがある為、慣れないと何かと戸惑う事が多く、また、客に過剰な迎合をしないという雰囲気の為か、味の好みという面だけではなく好き嫌いが分かれる店ではあるが、その見た目や味、食感の中に、食欲だけではなく、征服欲や自己顕示欲をも駆り立てる要素を多く備えているのは確かである。
 僕はこの目黒店にはその後も暫く通ったが、三田にあるという本店や他の支店には遂に行く機会が無く、そして仕事の行き先が変わると共に、目黒店にもなかなか足を向ける事が出来なくなってしまった。
 
 その頃から仕事で行く機会が多くなったのは、それまでとは反対方向に当たる大森や流通センター、大井埠頭辺りである。
 品川区の豊町、二葉、大田区の山王に掛けての住宅街を走り抜けて大森駅前に下りて行き、そこから池上通りを春日橋交差点まで南下して、環七を真東に進んで行く。平和の森公園を過ぎた辺りから、港らしい倉庫が立ち並ぶ界隈に入り、その先に大井埠頭を含む広大な埋立地が広がっている。
 東京湾に面するコンテナ埠頭には、毎日多くの外国航路のコンテナ船が接岸し、大量の貨物がガントリークレーンで荷揚げされて広大なコンテナヤードに何段にも積み上げられ、そしてそれらを輸送する為の途方もない数のトレーラーが車両待機場に列を成し、次から次へとコンテナを積んで各地に散って行った。
 当時、テレビの報道番組では評論家が、「日経平均が1万円を割り込んだら日本は破綻する」などと力説していたが、港のこの活況を見ても彼等は同じ事を言うのだろうかと漠然と考えていたら、実際に日経平均が一万円を割っても、当然だが日本は潰れなかった。
 マスコミが好んで取り上げる識者と呼ばれる人の言葉からは、「このまま何も手を打たなければ」という前置きが恣意的に省略されている。不安要素が無ければ、彼らには言う事が無くなってしまうからだ。実際は、誰も何の対処もしないという事はあり得ないから、彼らの言った通りにはまずならないものである。

 辟易するほどの大量の物資が目の前を通り過ぎて行く光景を眺めていたこの時期のある日、仕事場に出入りしているトラックの運転手が僕に、
「環七沿いにある "さつまっこ" って行った事ある?」
と聞いてきた。毎日の様に朝晩2回も通っている道の途上にあるラーメン屋なので当然存在は知っていたが、まだ入ったことは無かった。そう答えると、
「美味いから一度いってみ」
と言われたので、その日の帰りに早速寄ってみた。味はまあまあ好みの範ちゅうではあったが、実はそこから30mほど平和島駅寄りにある店の方が、僕は以前から気になっていた。
 この辺りは京急線の平和島駅に近い為、「平和島エリア」とひとくくりにされている界隈だが、住所地は「大森本町」や「大森東」であり、競艇場がある事で知られる平和島の最寄り駅は、一区間品川寄りの「大森海岸」である。
 その店の名は「大勝」といった。これは「たいしょう」ではなく「だいかつ」と読むという事を、だいぶ後になって知ったのだが、寄ってみようと思うと閉まっているという状態が続き、半ば諦めていたのである。
 通勤の通り道なので、立ち寄る為にわざわざ回り道をする必要が無いのは好都合なのだが、食べたいと思うと閉まっていて、都合が悪くて寄る事が出来ない時に限って開いていたのでは、縁が無いと思うしか無い。
 しかし、縁はあったのである。
 ある日、いつもの様に期待半分で店の前を通りかかると、入り口には営業中である事を示す、店名が染め抜かれた大きな紺色の幕が張られ、券売機が解放されていた。これ幸いと食券を買い、厨房とカウンターだけの物置の様な薄暗い店に入って席に着き、食券を出す。
 数分後に出て来たラーメンは、目黒の二郎で食べていたものと似た、太い麵の上にもやしがこんもりと盛られたものだったので、二郎に行けなくなって物足りなさを感じていた僕の胃袋を、これからはこの店が満足させてくれそうだと、大いに喜んだものである。
 その後、数回は大勝に行った記憶がある。しかし程無くすると、また幕が張られている光景を見掛ける事は無くなり、内側に掛けられた暗い色のカーテンが窓から覗いているだけの、虚ろな空間となってしまったのである。
 そんな状態が、その後どれくらい続いたかはよく憶えていない。
 環七と第一京浜が交差する大森東交差点は、横断歩道がコの字型になっている。と言うのは、環七の南側には横断歩道が無いのである。その為、仕事帰りに流通センターからここを通過して春日橋交差点に向かう場合、北側でなければ先に進めない。僕は環七の南側にある大勝に寄るつもりが無い時は、出発地点からずっと北側の歩道を走って来ていたので、店に変化があっても気付かなかった可能性はある。
 そこにラーメン屋があったという事さえ忘れそうになっていたある日の仕事帰り、変化を感じさせる何物かを感じ取ったのだろうか、環七を行き交う長いコンテナを積んだトレーラーの短い車間を透かして、なんとか通りの向うを覗いてみると、店が開いている様に見えたのである。
 逸る気持ちを抑えながら大森東交差点の手前にある旧東海道との環七美原通り交差点まで行き、環七を横断してからは立ち漕ぎで店の前まで自転車を走らせた。
 目線より少し上に当たる位置に掛かった黄色いテントには、「大勝」ではなく、「ラーメン髭」と印刷されている。やはり店が代わったのだ。
 券売機は大勝から引き継がれたもので、一度も食べる機会が無かった謎のメニューである「鶏ラーメン」も、引き続き売り切れを示すランプが付いたまま。
 「チャーシューメン」の食券を買って中に入ってみると、これまた以前と変わらず、油汚れで黒ずんだままの店内で、新しい店を始めるにあたって、先ずピカピカに磨き上げようとなどという気は全く無かったらしい。
そんな店主は、店名通りにちょび髭を生やした小太りで寡黙な男で、僕がカウンターの棚に置いた薄い紙の食券を一瞥して調理に取り掛かり、作業を終えて丼を持ち上げる直前、
「ニンニクは?」
とぶっきらぼうに聞き、要らないと伝えると、そのまま食券のある場所に丼を乗せた。中身の重量を伝える様に、ラジオの音声だけの店内に、その音が鈍く響いた。
 こんもりと盛り上がったもやしの麓に、角煮の様な豚肉の塊が4切れ並べられていて、縁に少しだけ濃い茶色のスープが覗いている。外見から、前にあった大勝や二郎と同じ系統のラーメンである事はすぐに分かったが、それ以上に、太くてゴワゴワした硬い麺や塊肉のただならぬ旨さが、僕の知覚に歓喜と呼んで良い程の強烈な印象を残したのである。
 その時以来、髭のラーメンの虜になった僕は、一週間に少なくとも一回は仕事の後に寄った。時には二日続けて、或いは週に三回という事もあった。
 店は京急線の平和島駅から少し歩く距離にあり、付近には前出の「さつまっこ」と、その間にもう1軒、開いているのを1度も見る事が無かったラーメン屋があった記憶があるが、まとまった商店街は旧東海道の界隈までで、そこから流通センター寄りは、それ程人通りの多い地域ではない。出来たばかりのラーメン屋を訪れる者もあまりおらず、僕が食べている間に誰も入って来なかったという事はザラにあった。
 ラーメン二郎の様に、いつも並ばなければ食べられないのも気が重いが、こんなに客が来ないのでは、折角気に入ったこの店も続けられるのかどうか心配になってくる。それ程いつも静かな店内で、ラジオと環七を通るトレーラーの音だけが響いていた。
 初めて髭に行ってから数ヶ月が経ったある日、同じ仕事場にいるラーメン好きの同僚が僕に、
「お前が通ってるっていってた髭さ、昨日初めて行って食って来たんだけど、その時〇〇が来てて、ちょうど店から出て来るところだったんだよ」
と言った。良く聞き取れなかったその名前は、文脈から察すると有名なラーメン愛好家か、飲食関係の評論家らしいニュアンスだったが、テレビや雑誌の話題に疎い僕は知るはずも無かったし、特に関心も無かったので記憶には残らなかった。しかし、著名人が髭に食べに来たという事を知り、これによってなんだか自分までもが認められたような、誇らしい気持ちになったのは嘘ではない。
 ところがその直後から、僕にとっては望ましくない方向に事態が動き出したのである。
 それはまず、客の急激な増加となって現れた。僕が行くのは、いつも夕方5時の開店時間前後だったので、最初から行列に並ばなければならなくなる事は無かったが、店内に僕以外の客が誰もいないという、かつての様なのんびりとした状況では無くなり、食べ終えて外に出ると待ち客が並んでいるのが普通になってしまった。
 しかし、その辺りまではまだ、これで店の経営が上手く軌道に乗り、潰れる心配が無くなったと喜んでいられたのだが、ある日、仕事が立て込んでしまい、いつもより遅い時間に店に着くと、ちょうど僕の前の客で材料切れの為に入店が締め切られてしまったのである。
 すまなそうに券売機にカバーをかける店主に、「また今度」と声を掛けて店の前から離れたのだが、その日は自転車のペダルの重さが身に染みる家路となった。
 それからも、少し遅くなると既に店仕舞いした後という状態が続き、たまに食べられたとしても肉の残りが少なくなってしまっていて、チャーシューメンが出来ないというのが常態化してしまった。
 それでも何とかラーメンにありつく事が出来た時には、店主に近況を聞いてみるのだが、とにかく急に客数が増えてしまい、当人が一番困惑している様子であった。この店主は、いくら客が増えても作る量を増やすつもりなど全く無いので、客が増えれば増えるだけ、店仕舞いする時間が早くなって行くのである。しかしその事は、食べられなかった時には恨めしくもあったが、結果的に店の味を保つ要因となったに違いない。

 そんな、髭で食べられずに落胆して帰って来た時に、よく夕食を食べに行った店があった。二国から戸越と豊町の間の道に入ってすぐの豊町側にあった「らーめん浜ちゃん」という、典型的な町の食堂である。
 僕が豊町に住み始めた後に出来た、木造りの内装が明るく綺麗な店で、ラーメンに関しては、店主自ら2種類の麺を手打ちで作る程のこだわり様であった。スープもコクがあって美味く、また脂身の少ない豚ロースの大きなチャーシューも特徴的で、町の食堂らしからぬ美味いラーメンを出していたのである。
 客層は、昼はいつも現場作業員風のグループ客で賑わい、夜は近所の住民が居酒屋代わりに使っているといった雰囲気で、ラーメン好きが遥々遠方から食べに来る様な店では全くなかったが、僕はここのラーメンがとても気に入り、店が出来た当初から髭に通い出す前までは、頻繁に食事していた。
 特に、仕事帰りに寄ってモツ煮込みを肴にビールを飲み、タンメンを食べる事が多かった。タンメンに限って言えば、僕は未だにこの店以上に美味いものを食べたことが無いと断言できる。
 塩ラーメンに炒め野菜が乗ったこの食べ物は、普通のラーメンとは違った魅力に溢れている。豚肉と野菜を炒め、そこにラーメンのスープを流し込む為、茹でた野菜をただ乗せるのとは違い、炒める事によって素材から引き出された香りや甘味に加え、フライパンにこびり付いたものが旨味となってスープに溶け込み、更に香ばしさに溢れた絶妙な味を生み出すのである。
 休日には、時間を見計らってすぐ近くの「松の湯」という銭湯に行き、温泉やサウナで時間を掛けてゆっくりと身体の水分を搾り出してから開店直後の浜ちゃんに駆け込み、先ず瓶ビールを冷えたグラスで一口グイッといく。厨房で店主がタンメンを作る音を聞いて進捗状況を心に思い描きながら、アルコール類を注文した客が一人前だけ食べられる貴重なモツ煮込みを摘まみ、頃合い良く出て来たタンメンをゆっくりと楽しむというのが、僕にとっては近所で出来る最高のフルコースであった。
 店内には六人掛け程度のテーブルが3脚あり、混んでくると相席になるのだが、僕が行く時間帯は、どちらにしても町内のおじさん連中の夕食時にはかち合わなかったので相席になる事はまず無く、それどころか他の客がいる事すらもあまり無かった。たまに他の客がいると、ほとんどが煙草を吸うのであまりいい気分ではなかったが、地元の小さな食堂では、それもいた仕方無いだろう。

 豊町にはちょうど10年間住み、練馬の中村橋と共に、東京では一番長く住んだ町となった。その間、通ったと言えるほど食べに行った店は、この章に書いた3軒と前章の1軒、他にあと数件だけである。1~2度行っただけの店ならもうあと何軒か記憶には残っているが、この4軒は、それまでに行った全ての店の中でも、思い入れという点ではずば抜けている。
 特に髭に関しては、開店から暫くの間の閑散としていた時期から、開店待ちの行列ができるような繁盛店に成長するまでの過程をつぶさに見られたという点で、特に感慨深いものがある。
 幾つかの場所を転々としながら、自分の故郷よりも長く住んだ東京を離れる事になり、引っ越しの前に最後の髭のラーメンを食べに行った時は、店の厨房で使っている洗剤を大森駅前のドラッグストアの店頭に出ている分だけ買い占めて持って行き、帰り際に渡した。チャーシューメンが出来なかった時でも、内緒で肉を少し多めに入れてくれたお礼のつもりであった。そして、またいつか必ず食べに来るから、店を続けていてくれと伝えて別れた。

 その後すぐに名古屋に引っ越した僕は、ちょうど2年後に東京に行く機会があり、案外と早く約束を果たす事が出来た。
 品川駅から京急線の羽田空港行きに乗って平和島駅で降り、開店時間の30分程前に店に近付いて行くと、店の外には誰もおらず、窓には内側からカーテンが掛けられていて少し不安にさせられたが、前まで行ってみると、カーテンの上から室内の灯りが漏れている。
 その昔、テレビの取材を受けておきながら、放送日の翌日にわざと臨時休業した店主の事である。実際に店が開くまでは、何が起こるか分からない。取り敢えず、店内からは灯りと共に、豚肉が煮える熱気と甘い匂いが漏れ出ている。
 そのまま並んでいると、開店時間の少し前に店主が券売機を稼働させる為に現れた。風貌は全く変わっていない。そして、僕を見るなり
「お、久しぶり」
と言ってくれた。こちらも挨拶を返しながら「チャーシューメン」の食券を買い、店に入りながら何気なく後ろを振り向いてみると、僕の背後にはいつの間にか、横長の店の間口よりも長い行列が出来ていた。
 店内は全く変わっていない。薄暗い照明、油で黒ずんだ厨房や床、ラジカセから流れるNACK5の音楽とDJの声、要領が分からずに一度も登録する事が無かったメルマガのアドレスが書かれた貼紙。
 2年程度ではそれほど変わるものではないとは理解しながらも、やはり懐かしいという感慨をこみ上げさせるに十分な、この店らしい変化の無さである。
 初めて来ていきなり大盛りを注文する客に対して、不信感をあからさまに顔に出す店主だが、そんな店主と客との興味深い攻防も、数々思い出された。
 全く幸運なことに、僕は初めてこの店に来た時から、チャーシューメンの普通盛りしか注文しなかった。もっとも後半は、チャーシューメンも注文出来ない事が多くなってしまったが、もしも最初に大盛りを注文して断られていたら、その後、良好な関係を築いて通い続けられていたかどうかは自信が無い。仮に受け付けられていたとしても、間違い無く食べ切れる量ではなかった。
 久しぶりに食べた髭のチャーシューメンは、麺の食感やスープの油っこさなど、だいぶ変化の跡が見られたが、やはりこの店のラーメンそのものであり、夢中で食べていたあの頃の記憶を引き出すには十分なものがあった。
 かつて、ゴリ押しで大盛りを注文しながら普通盛りの分量も食べられなかった客に対して舌打ちをした、この店主の醸し出す雰囲気も含めた店全体の佇まいも、何らそれを阻害しない。
 そして、食べている間にも途切れることの無い、窓に映る外の行列の影が、僕ごときが心を煩わせずとも、この店がこの先もずっと続いていくであろう事を、僕の背中に語りかけているようであった。
 髭には、その約1年後にも訪問する機会があり、初期の頃からメニューにありながら結局いつも見送っていた油そばを初めて食べて、また感動を新たにした。
 髭で食べたのは、その時が最後である。

 髭への最後の訪問の前日に、浜ちゃんを訪ねた。
 豊町に住んでいた頃の休日と同じ様に、松の湯でゆったりと温泉に浸かり、サウナで十分に汗を流す。銭湯で見掛ける爺さん達の顔ぶれも、3年程度ではそう変わらないものである。
 浜ちゃんでは、定位置だった入ってすぐのテーブルに着き、瓶ビールとモツ煮込み、タンメンを注文して、奥にあるテレビを眺めながら待った。
 すぐに出て来たビールを、良く冷えたコップに注いで一口で飲み干し、次いで出て来たモツ煮込みをつまみに杯を重ねながら、やはり厨房から聞こえて来る、タンメンを作る音に耳を傾けた。
 相変わらず他に客のいない静かな店内で、幾つか新しいメニューが加わった壁の貼紙などを眺めていて、以前から身動きする度に開いてしまっていた出入口の自動ドアが、手動になっている事に気付いた。最初に入った時に気付かないものだろうかと自分のうっかりさ加減に呆れたが、入った時に元々自動ドアだった事を忘れていたのだろうと思い直した。3年間での変化と言えば、それぐらいだろうか。
 出て来たタンメンを味わいながら再び店内を見廻していると、店主も相変わらず暇そうで、調理が終わった後は奥の椅子に座って時代劇を楽しそうに観ている。
 結局、僕がいる間に他の客は来なかったので、煙草の煙で嫌な思いをする事は無く、快適に過ごす事が出来た。
 そして帰り際、勘定を済ませながら店主に、以前近くに住んでいた者である事を告げると、
「あ~、やっぱりそう。見覚えある人だなぁど思ってだんだけど」
と言われた。青森出身の、聞き取れない程ではないが、結構訛りのあるおじいちゃんである。僕も出身は東北だが、その事をこの店主に伝えていたかどうかは忘れてしまった。3年経っても、薄っすらとでも僕の事を憶えてくれていたのは、地元の小さな食堂だからであろうか。この狭い界隈だけの事にせよ、自分の存在が記憶されている場所があるという発見は嬉しいものである。

 東京から帰って数か月後のある日、インターネットのレストラン検索サイトで、浜ちゃんが既に無くなっている事を知った。浜ちゃんを知っているブロガーが書いた、浜ちゃんの跡地に出来た店についての文章を偶然読んだ事に依ってである。
 店主の身内らしき人々がしばしば店に遊びに来ていたので、住居が近くにあるか、或いはその建物自体が住居なのではないかと勝手に想像していたのだが、今となってはそれも確かめ様が無い。いずれにしても、僕が傑作だと思っていたあのタンメンを食べる事はもう出来ないという現実を、その瞬間に突きつけられてしまったのである。
 銭湯で汗を流した後の火照った身体に冷えたビールを注ぎ込み、その後でゆっくり啜った熱いタンメンの味わいを、あの界隈の日常風景や、あの頃起こった様々な出来事と共に、今でもたまに思い出す。
 二国から路地に入った小さな界隈にかつてあった、この普通の食堂もまた、これまでに書いて来た店々と同様、僕にとってはもう会う事の叶わない、心に残る場所の一つである。

 今は当たり前のように啜っているこの一杯も、いずれは追憶の彼方に去ってしまう時が来てしまうのだろうか。それについては、まだまだ相当の猶予がある事を願うのみである。
 それぞれの場所に確かに存在した "あの時の自分" に思いを馳せながら、そろそろ筆を置くことにしよう。
                      第六話及び全話・完

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# by roseagainplz | 2017-07-04 18:13 | 随筆 | Comments(0)

一杯の追憶 (第五話)   

 「どうしてどの部屋もベランダに洗濯機が置いてあるの?」
 当時僕が住んでいた都営浅草線の中延駅近くにある古い3階建てアパートに初めて訪ねて来た交際中の女性が、建物の前に立って真っ先に僕に聞いてきたのが、その事だった。
 そう言われるまでは別に珍しい事とは思わず、そこに蛇口と排水溝があるから当然の様にそうしていただけなのだが、今まで住んできたアパートの間取りを思い返してみると、洗濯機を設置する場所は地域によって2種類に分かれていた。
 僕が東京で暮らした事がある地域は、住んだ順に世田谷区、練馬区、大田区、品川区だが、世田谷区の経堂で住んでいたアパートは風呂無し、トイレ共同の古くて狭いアパートだったので、洗濯機を置く場所は無かった。
 練馬区では2ヵ所に住んだが、どちらも台所に水回りが集められていて、洗濯機用の水道や排水溝も流し台の隣に設置されていた。その為、洗い終わった物はベランダまで運んで干していたのだが、その後で住んだ大田区や品川区では洗濯機はベランダや玄関先など屋外に設置する様に設計されていて、洗った物はその場で干す事が出来た。
 それに見慣れない人は、電化製品が屋外で雨ざらしになっている事に対して不安を感じるらしい。しかし、この様な間取りに慣れている人にとっては、そもそも水を使う洗濯機が雨ごときで壊れる筈は無いし、ベランダにしろ玄関先にしろ、屋根や軒が掛かっているのでいつも雨曝しになっている訳ではなく、全く問題にはしない。むしろ、洗濯物を洗ってその場で物干し竿に掛けていけるという事に利便性を見出しているのである。
 しかし、ベランダに洗濯機を置くことに関しては、幾つか気を付けなければならない事がある。コンセントに雨がかからない様になっているかを良く確認するのは勿論だが、ベランダという場所は大抵の場合、水はけを良くするために床が少し傾いているため、洗濯機の足の長さをそれぞれ慎重に調節して、本体が確実に平らになる様に設置しなければならない。さもないと、何年か経ったある日の洗濯中、町中に轟く様な大音響と共に軸が大破する可能性がある事は、僕自身が実際に経験済みである。

 中延に住み始めた当時は、後に振り返ってみると「IT景気」と呼ばれた時期であった。それまではほんの一部の研究対象だった物が世界規模に広がっていき、一般の人々にとっても身近な実用品として普及していく段階では、まだ競争が少ない市場で大きな利益を得るチャンスがあったのは当然であろう。しかし、そこに投資が過剰に集中し、やがて「景気」は「バブル」へと変化して行ったのである。
 そんな世相とは直接関わる機会も無く暮らしていた僕はその頃、五反田で1日18時間拘束される仕事に就いていた。今考えても、その当時は何を思って日々生活していたのか、あまり良く思い出せない状態だったのだが、そうかと言って、忘れてしまいたい様な嫌な事ばかりだった訳ではない。
 その頃の事で特に印象に残っているのは、食生活である。
 朝起きるとすぐに顔を洗って着替えをし、朝食は時間が無いので摂らずに出勤。昼は毎日同じラーメン屋でラーメンライス、夜は牛丼チェーンの松屋で豚めしを食べるというパターンを、数か月に渡ってほぼ毎日繰り返していた。
 その当時は、今日は何を食べようかという思考すらも放棄して、ただただ毎日同じ物を食べ続ける方が気が楽だという様な精神状態だったのだが、しかし、ラーメンライスも豚めしも、かなり気に入っていたのは事実である。

 松屋で初めて食事をしたのは、その「豚めし」の販売が開始された頃だった。
 2003年にアメリカでBSEが発生し、アメリカ産牛肉が輸入差し止めになるという騒ぎに発展すると、日本の牛丼チェーンはアメリカに代わる輸入元を探すか、牛肉を使わないメニューを開発するかという選択に迫られた。
 当時、最大大手の吉野家の社長がアメリカ産牛肉にこだわって輸入解禁を訴え、「食の安全」の観点などから各方面で批判されたのを憶えているが、牛丼には脂身が多く甘みのあるアメリカ産牛肉が不可欠で、赤身の多いオーストラリア産では美味しい牛丼は作れないという考えには、個人的には納得できるものがあった。
 また、そのアメリカ産牛肉をアメリカ人は日常的に食べているのだし、それを日本人が食べる事にどれほどのリスクがあるのだろうか、といった疑問も持っていた。
 それに加え、牛肉に限った事ではないが、日本産の物は値段が高すぎる。外国産に比べて10倍の値段が付いていても、美味しさはせいぜい2~3倍ぐらいだろうと思っていたので、僕は輸入禁止に賛成する気にはなれなかった。
 しかし、安全な日本の農畜産物を求める世論や、国内の生産者を守る立場からの政治的圧力もかなりあったのだろう。アメリカ産牛肉はその後2年間に渡り輸入禁止となり、大手牛丼チェーンは他の国から牛肉を輸入するのではなく、牛肉を豚肉に代えた商品を売り出したのである。
 この様な経緯で生まれた豚丼だったが、僕はこれをかなり気に入って頻繁に食べていた。
 初めは輸入牛肉の問題で窮地に立たされた牛丼チェーンを応援しようかという気持ちから、外食するなら牛丼屋に行こうというぐらいのものだったが、食べてみるとこれが実に美味い。しかも、吉野家一辺倒でそれまで行った事が無かった松屋で一度食べてみると、松屋の「豚めし」の方がより好みの味である事が分かった。しかも、松屋は全ての食事メニューに味噌汁が付くので、食後の腹の落ち着き具合が良かった。
 極端な長時間労働からの帰り道、夜11時過ぎに豚めしを胃袋に詰め込み、満腹感から来る眠気を逃がさない様に、急いで家に帰ってすぐに布団に入る。そして朝4時に起き、支度をして再び仕事に向うという生活パターンが続いた。

 その頃、毎日昼食を摂っていたのが、五反田の高架下にあった「時代屋」という煮干しラーメの店である。
 東急池上線とJRの二つの五反田駅の間を走る都道317号線を跨ぐ鉄橋の様なその高架は、山手線の内回りと外回り及び複線の合計4本のレールが走っていて、幅が広く、丈が極端に低い。
 高架と並行して歩道橋も設けられていて、時代屋があった池上線側の上方には、東急ストアの4階に位置する五反田駅のホームが被さるように中空に掛かっている。その為、高架下に入ると、まるでトンネルの様に急に暗くなるのである。
 都会的な立体構造の底辺に位置するこの高架下の暗がりは、周辺の幾つかの古い商店や、コンクリート壁の落書きなどと共に、混沌としているようでいて、見慣れると妙に心を落ち着かせられる、懐かしいような風情がある。
 その高架下の暗がりの中に、時代屋はあった。
 丈の低い鉄橋が直接店に覆い被さり、天井のすぐ上を電車が走っているといった具合で、電車が通る度にカウンターだけの狭い店は、鉄骨とコンクリートが屋根裏で取っ組み合いの大喧嘩を始めたかの様な重々しい音と振動に包まれた。
 普通に考えれば、そんな店は居心地が良い訳など無く、食べ物が美味しく感じられる要素など微塵も無いのだが、そんな環境下で啜っていたラーメンは不思議と僕の心や胃袋に馴染み、その味と電車の騒音や振動、僕自身の肉体と精神の疲弊が一つの塊として、今でも時々僕の心象に浮かび上がり、形を成そうとする事がある。

 煮干しラーメンと言えば、東北や新潟にある、あっさりとした醤油味の透き通ったスープに背脂が浮かべられたラーメンがまず想像されるが、時代屋のラーメンはそれとは全く違い、スープは鶏ガラ出汁で、濁っていてコクがあり、それに煮干しの出汁が加えられている。
 煮干しの風味が加わる事によって動物的なクセが緩和され、また、煮干しが持つ尖った雑味の様なものを鶏ガラ出汁のコクがまろやかに包み込んで、実に良いバランスが保たれていた。
 そして、少しだけ浮いている背脂と共に、スープが縮れた中太麺に絡み、同時に口の中に入って来る心地良さを一啜り毎に味わう。
 よく言われる、「麺は音を立てて啜ると美味い」と言う表現は、当たってはいるが正確ではない。寧ろ、美味しく食べようとすると、音は止められないと言える。
 麺を啜る時、麺自体と、麺と麺の間に絡まって口の中に入って来るスープを同時に味わうのが一番良いバランスである筈なのだが、音が出ない様に麺をいちいち箸で口に運んでいると、麺に絡んでいるスープがどんどん流れ落ちてしまい、それが崩れてしまうのである。
 従って、日本人が日本国内でラーメンを食べる時は遠慮なく音を立てて食べれば良いし、外国人にもその様に勧めてみれば良い。ただし、それを無理強いする必要は無いし、日本人も海外で食べる時は周囲を憚って止めておくか、それが嫌なら海外では食べなければ良いだけの事である。

 時代屋でもう一つ思い出されるのは、卓上の調味料類と共に、無料の梅干しが置かれていた事である。ラーメン自体がチャーシューも含めてご飯のおかずに十分になる味だったので、僕はいつもライス付きで注文していたのだが、それに加えて梅干しを食べる事により、こんな生活を続けて不健康を強いている自分の身体に対して、それがせめてもの罪滅ぼしになればと考えていた。いわば、免罪符的なものだったと言える。

 時代屋がいつまでその場所にあったのかは、僕は知らない。
 過酷な労働の日々を脱して最後に訪ねてから数年後、機会があって久しぶりに五反田のガード下に行ってみると、全く知らない店がそこにあり、随分落胆して家に帰ったのを憶えている。住んでいた中延のアパートから五反田駅までは自転車で5分もあれば行ける距離だったので、行こうと思えばいつでも行く事は出来たのだが、やはり無意識にその場所に近付くのを避けていたのかも知れない。
 それ以前にも、五反田から桜田通りを北に向かう途中のどこか、高輪台辺りを自転車で通り掛かった際、時代屋の別の支店を偶然見つけて入った事があった。しかしその店の味は、五反田店には遠く及ばない、同じ名前を名乗っている店だとは到底思えない様な、全く旨味を感じないものだったと記憶している。その店に関してはあまりにも曖昧な記憶しか無く、今となっては場所も含めて書くべき事柄はこれくらいしか見つからない。
 いずれにしても、あの五反田のガード下という場所でまた同じラーメンを食べる事はもう出来ないという事実は、受け入れざるを得なかった。

 そしてそれからまた数年が経ち、僕が東京を離れて名古屋に引っ越してからの事である。
 夫婦で東京を訪れる機会があり、その際、品川のホテルに宿泊したので、つい懐かしさに駆られ、夕食後の遅い時間に一人で五反田まで足を延ばしてみた。その昔、僕に洗濯機の置き場所について質問した妻は、五反田での事を知らない。
 ガード下のその場所には、微かな記憶に残っていたものとはまた違う名前の店があった。ラーメン屋にとって、ここは鬼門なのだろうか。
 名前こそ違うが、同じ「煮干し中華」を謳っている店だったので、そんなラーメン屋がこの場所にあるという事に感慨深いものを感じ、立ち寄ってみる事にした。
 券売機が店の外にあるのは相変わらず。低い高架が店に覆い被さり、屋根や軒の代わりになっているので、機械が雨に濡れる心配が無い。ベランダや玄関先に置いた洗濯機と同じである。
 店内も変わらず、カウンターだけの狭い空間である。おそらく大まかなレイアウトは変わっていないのだろうが、時代屋の頃の「町の食堂」然とした店構えから、平成のラーメン店といった雰囲気にイメージが変わっていて、当時を思い起こす事は容易ではない。それに、あの当時は昼時ばかりで、夜に食べに来た事は一度も無かったので、その影響もあるのかも知れない。
 そんな事を思いながら時間を過ごしていると、ラーメンが運ばれて来た。
 店に入った時から匂いはしていたのだが、やはり目の前で香る煮干しの匂いには、懐かしいと思う気持ちが沸き上がる。
 しかし、時代屋には無かった現代風の気取りは、やはり隠し様が無い。当時は昔懐かしい中華そばという位置付けだったものが、現在は寧ろ最新のトレンドになっているのである。あの頃と全く同じものを求めても、もはや叶えられるはずも無い。
 しかし、今食べているこの一杯を、もはや存在しない「あの時の味」に一瞬で変えてくれるものが、この店にはあった。ラーメンを啜り始めてから最初にそれが起こった瞬間、僕の精神は疑いなく、「あの頃」を垣間見たのである。
 低い天井のすぐ向こうを、電車が通過して行く。暫し店内に響く、鉄骨とコンクリートが軋み合う音と、尻から腹に伝わって来る重い振動。そして、店の前の道を越えた先にある五反田駅のホームに電車が滑り込んで行き、レールを軋ませながら徐々に速度を落として、やがて静かに停車する気配。
 それら一連のものに包まれながら、僕はこの一杯によって、辛うじて自分の心を繫ぎ留めていた日々がかつてこの場所にあった事を、ひっそりと想ったのである。

                   第五話・完

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# by roseagainplz | 2017-06-23 16:41 | 随筆 | Comments(0)

一杯の追憶 (第四話)   

 都心に向かう朝の通勤電車内は、身動きする余地も無い程の混み様なので、床まで倒される心配が無い分、寧ろ気楽に身を任せていられた。
 僕の記憶違いでなければ、僕が経堂に住んでいた頃に利用していた小田急線の世田谷代田~下北沢間が、当時、最も混雑の度合いが酷いと言われた区間だったのだが、その電車内での圧迫感や周囲の客との密着度ときたら、駅に着いて新しい客が乗り込んで来た時や、電車の加・減速時、カーブに差し掛かった時など、巨大な血圧計のマンシェットを胴体に巻き付けられ、容赦なく空気を送り込まれている様な感覚で、人の身体ではなくマッサージ器か何かだと空想していれば結構快感でもあったし、降車後には、かなりの解放感を味わえた。
 しかし、長年に渡って毎日のように満員電車の中にいると、時には理不尽な目に合うもので、それ程混んでいる時ではなかったが、一度、痴漢に間違われたことがあった。
 痴漢の被害者は僕の隣に立っていた女性だったのだが、僕を訴えたのは被害者ではなく、僕の後ろに立っていた善意の第三者の男性である。察するに、女性が隣に立っている僕をチラチラと見ていたので、後ろの男性が僕を痴漢と勘違いして威嚇し、抑えようとしたのだ。
 しかし、僕は何が起こったのか全く理解出来ずにキョトンとするばかり。痴漢に遭っていたと思われる当の女性は終始俯いて何も言葉を発せず、幸か不幸か電車は終点に着いて人の流れに押され、そのまま全てうやむやになるという結果になったのである。
 あれは誰が悪かったというのだろうか。当然、痴漢をしていた者がいたとすれば、その本人が一番悪いのだろうが、何も持っていない手を下げていた自分も悪かったのか、それとも、犯人が誰かを正確に見極めずに行動した男性が悪かったのか。或いは、痴漢の手を自分で掴まなかった被害者の女性が悪かったのだろうか。
 結局、良い目を見たのは痴漢の真犯人だけという不条理である。
 満員電車で座れなかったとしたら、一番居心地が良かったのはドア際である。この場所を確保してさえいれば、大勢の乗り降りがあったとしても、自分はほとんど動く必要も、奥に押しやられる恐れも無いし、支柱などに寄り掛かっている事も出来る。また、荷物を網棚に上げれば両手が空くので、読書をするのも楽だ。そして何よりも、自分が降りる駅に着いたら、すぐに降りられるのである。
 その為、ドア際を確保できるかどうかという事は、精神衛生上、かなり重要であった。

 東京メトロ銀座線の虎ノ門駅と、同じく銀座線の他、JRと浅草線が通っている新橋駅とのちょうど中間辺りに、西新橋という地域がある。
 新橋側から行くと、下を都営三田線が走っている日比谷通りから先が西新橋。南は御成門中学校までで、道路ひとつ隔てた御成門小学校は芝公園となる。西は外堀通りの西新橋一丁目交差点から南下し、虎ノ門ヒルズの前をかすめて行く都道301号線までで、その先は虎ノ門。北は、外堀通りを越えて2ブロックまでは西新橋なのだが、そのエリアにあるりそな銀行は「虎ノ門支店」を、三井住友銀行は「日比谷支店」をそれぞれ名乗っているので、同じ新橋でも「西」が付くと、通りが良くないと判断されているのかも知れない。しかし、郵便局はさすが、「西新橋郵便局」である。
 因みに、三井住友銀行日比谷支店は以前、外堀通りを挟んで反対側にあったが、そこも日比谷ではなく、もちろん西新橋である。住所地で「日比谷」を冠しているのは「日比谷公園」だけであり、「日比谷」という住所地は、現在は存在していない。
 僕が西新橋で働いていた90年代の終わり頃、現在の虎ノ門ヒルズの前辺りから西新橋側に路地を2本入った角に、「大雅」というラーメン屋というか、中華屋があった。
 その当時、虎ノ門ヒルズは第何番目かの森ビルだったはずで、環二通りもまだこの辺りは整備されておらず、大雅があった場所は、一方通行の細い路地が交わる小さな十字路だった。
 この辺りには、昼間は定食屋、夜は小料理屋兼居酒屋といった雰囲気の「錦」や、洋食屋の「Dove」、喫茶店の「SAMSON」が当時からあり、休憩時間をゆったりと過ごしたい連中には、それらの店の方が人気があった。
 また、外堀通りや日比谷通りまで出れば、もっと色々な店があったのだが、僕はこの大雅が随分気に入り、会社の近所という事も手伝って、週に3~4日は通っていた記憶がある。
 別に、他の店と比べてこの店が特別美味いとか安いとかという訳では無かったのだが、昼時には味の強い、こってりとした中華で腹を満たしたいという気持ちがあった。
 そして、恐らく同じような考えを持っていたであろう、近所のサラリーマン達がこぞってこの店に集まり、昼時はいつも行列が出来ていたのである。
 多少並んでいても客の回転は早く、すぐ順番が回って来るのは分かっているので、躊躇なく列に並ぶ。厨房を囲むカウンターと、小さなテーブルがいくつかあるだけの狭い店に長居するサラリーマンなど、いないのである。
 中華鍋の肌と中華オタマの縁がぶつかり合い、擦れ合う、トーンの高い金属音や、炒め油の上で野菜の水分が弾ける、雨脚の様な騒音に耳を委ね、油の焼ける匂いや、色々な調味料が放つ香りを鼻で感じ、料理が出来上がっていく様子を頭の中で想像しながら、隣の客と肩が触れ合うくらい狭いカウンター席で、注文した食べ物が出て来るのを待っている時間は、暫し仕事のストレスから心を解放してくれ、憩いを与えてくれた。
 これ程までに僕の心に大雅が残ったのは、昼食だけではなく、夕食もかなり世話になった事にも原因がある。会社で残業があるときは、ほぼ決まって大雅に出前を頼んでいたからである。
 現在では、人手不足の為に、出前をやっている飲食店は少ないだろうが、どの程度の区域までかは分からないが、大雅は出前もやっていた。
 夜8時頃、岡持ちを掲げた大雅の店員が「毎度」と挨拶して部屋の入口に姿を見せたら、残業のメンバーはひとまず手を止め、休憩に入る。入口の手前に設置された低いロッカーの上に、ラップをかけられたラーメンやチャーハン、カレーライスなどが並べられていく様子を見ると、ほっと一息つけたものである。

 それにしても、なんと残業の多い仕事だったことか。
 休日出勤までは滅多に無かったが、平日に関しては、もはや定時という概念の無い労働環境であった。
 残業の主な原因は、業務の進捗状況をチェックするミーティングが、通常業務を中断して頻繁に行われる事や、自分の仕事が一段落着いても、同じ部署で誰か一人でも仕事が終わらずに残っていたら、手伝わずに帰る訳にはいかないという雰囲気がある事、いわば縦と横、両方向のしがらみが生み出す非効率性にあった。
 縦の繋がりに於いては、仕事の連続性よりも部下の統制に躍起となっている上司に対して内心不満を持ちながらも、自分が上に立った時にはどうかと考えると、同じ様にしない自信が持てない。
 横の繋がりに於いては、残業を断って自分だけ帰ってしまうと、人間関係の上で孤立してしまう。それだけは避けておきたいという保身の気持ちを、自分の仕事が終わらない時には助けて貰えるからお互い様だという、組織人としてまっとうに見える様な口実をもって納得させなければならない。
 そんな葛藤の日々の中で、唯一の楽しみだったのが、店屋物のラーメンであった。疲弊した精神と肉体に入り込んでくる、この味の濃い、こってりとした、香ばしい中華屋のラーメンは、昼間の快活で人懐こい風情とは全く違う、静かで暴力的な魅力を湛えていた。

 まったく、あの味は素晴らしかった。全ての調理は、出来上がってから届けられるまでの時間経過を考えてなされているはずだが、当然、店で出来たてを食べるという、一番良い状態には及ばない。
 スープはそこそこの熱さを保ってはいるが、麺は当然のように伸びている。また、スープがこぼれるのを防ぐ為に丼に掛けられたラップを剥がすと、そのラップと丼の隙間に吸い上げられていたスープが淵から外に滴り、丼を持つと手にスープが付いて、ベトベトになってしまう。
 しかし、そんな些細な事はさて置き、スープを幾分吸って伸びた麺は、それはそれでいい味を出していた。麺類が好きな人の大半は、硬めの茹で上がりで歯応えがあった方が良いというが、スープを吸い、その塩味と香味を内部に取り込んだ麺もまた、旨味がある。
 それに加えて、残業でクタクタになった身体と心には、そんな幾分くたびれた麺の歯応えの方が丁度良かったのである。
 
 新橋という、巨大なオフィスビルと雑多な飲み屋街が隣り合わせになっている大きな街と、虎ノ門という、背後にこの国の中枢とも言える霞が関が控える厳つい街に挟まれた、小規模な事務所ビルが並ぶこの町で働いている間、僕は食事の大半を、この大雅で摂ったことになる。
 たまたま勤めていた会社の近くにあったというだけで通った食堂でも、長く通うと親しみが湧き、その土地やその当時の記憶と共に心に染み付くものである。
 その会社を辞めてから数年経ったある日、たまたま用事で近くを通り掛かったので、少し寄り道をして大雅まで行き、懐かしいというには早過ぎるが、それなりの感慨を抱きながら、ラーメンを啜ってみた。
 しかし、僕の舌は最早、胸を塞がれるような葛藤と共に味わった、あの日々の味を再現しなかった。

 それからまた数年が経ち、当時勤めていた会社が既に無くなっている事を人伝に知った時は、特に訪ねてみようという考えは湧かなかったが、それから更に十数年の時が経ったある日、東京に行く機会があり、夕方、新橋から西新橋まで歩いて行ってみると、付近の様子は一変していた。
 大雅があった四つ角は影も形も無く、狭い路地は、目の前に横たわる車道に沿って作られた広い歩道に取って代わられていたのである。
 当時の面影を多少残している路地から、大勢の人々が行き交う歩道に出ると、右側の視界の遥か頭上に、虎ノ門ヒルズの巨体が異次元との境界を示すように立ちはだかっている。まさに、歩道に一歩足を踏み入れた所から先は、全く違う場所の様であった。
 歩道の手前も、昔あった建物が幾つか無くなり、新しく小奇麗な店に変わっていたが、歩道から一本手前の路地に面した「錦」は、その年代を感じさせる壁を露にして、その少し先にあるDoveやSAMSONと共に、変わらずに生き残っていた。

 感慨に耽りながら慣れ親しんだ界隈を抜け出し、西新橋の見知らぬ表通りを暫し歩きながら、また一つ、記憶に染み込んでいた味が、訪ね得ようも無い彼方に去ってしまった事を想った。

                          第四話・完

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# by roseagainplz | 2017-05-19 15:18 | 随筆 | Comments(0)

一杯の追憶 (第三話)   

 池袋から西武池袋線の各停に乗り、練馬を過ぎて目白通りの高架を潜ると、間も無く中村橋という駅に停車する__
 こう書くと、奇異の念を抱く人も多いかも知れないが、僕が中村橋に住んでいた頃は、この西武池袋線と目白通りの立体交差は、上下が逆だったのである。
 2001年3月にこの入れ替え工事が行われた時には、僕は既に品川区に引っ越していたが、幹線道路の通行を迂回路に回しておいて、鉄道の終電後に場所をそっくり入れ替え、どちらも次の朝から運用を再開させるという、長期間に渡る綿密な準備の末に行われた手品の様な大工事は、当日のニュースで見る事が出来た。
 僕が中村橋に住み始めた当初、西武池袋線はまだ高架上ではなく地上を走っていて、駅の東側を通る中杉通りにあった踏切りは、朝夕の多いときは上下線合わせて7本の電車が通過しないと開かなかった。そして大抵の場合、7本目は無人の回送電車だったので、余計にイライラしたものである。
 その後数年して、線路を高架にする為の工事が始まり、駅はシートで覆われて足場が組まれ、そこかしこに工事用の資材が並べられた。
 そして先ず、上り線が高架上を走る様になり、それだけで踏切が開かない時間は激減し、作業場や工事現場の様な雰囲気が好きな僕は当時、『この状態で工事が終わっても良いんだが・・・』などと思ったものである。
 やがて駅の工事は終わり、中村橋駅は上下線とも高架上を電車が走るようになった。
 駅は高架になる前から上下線のホームが別々で、双方を結ぶ地下道や跨線橋の類は無かった。その為、中杉通りの北の終点辺りに住んでいた僕は、下り線で池袋から帰って来て改札を出てすぐに、電車の通過が済むまで踏切で待たされていたのだが、工事後は、そのまま高架を潜って帰れる様になった。
 しかしそれよりも何よりも、高架上を電車が動き出す時の重く規則正しい振動音を、地元の駅でいつでも聞けるという事が、僕にとっては堪らなく嬉しく、胸が弾んだものである。
 
 ところで、「中杉通り」という名前は、僕は中村橋と杉並を結んでいるからそう呼ばれているとずっと思っていたのだが、どうやら中野と杉並を結んでいる為というのが定説らしい。当時は、阿佐ヶ谷以南にも中杉通りが続いている事など、全く考えが及ばなかったのである。
 それはともかく、この通りは阿佐ヶ谷駅から西武新宿線の鷺ノ宮駅を経て、中村橋駅の手前で千川通りと交差するまでは道幅が広く、交通量の多い道路なのだが、その先からは一方通行になって急に道幅が狭まり、駅の北側に出ると、地元の商店街へと風景が一変してしまう。そして、その賑わいが途絶え、少し寂しさを覚える様な界隈を通り過ぎると、突然、だだっ広い目白通りにぶつかり、そこが終点となる。
 そんな中杉通りの、中村橋駅と阿佐ヶ谷駅の間の一本道をバスが通っていて、中村橋に住んでいた頃、よくそれに乗って阿佐ヶ谷まで行き、ホープ軒でラーメンを食べて帰って来たものである。
 或いは、当時勤めていた会社があった江東区の門前仲町から、総武線乗り入れの車両を選んで東西線に乗り、阿佐ヶ谷で一杯食べてからバスで帰るという寄り道をする事も、たまにあった。
 阿佐ヶ谷の店を知ったのは、第一話で書いた通り、千駄ヶ谷のホープ軒の話をした友人が見せてくれたチラシでだったが、なるほど阿佐ヶ谷と千駄ヶ谷ではラーメンの雰囲気が全く違っていて、阿佐ヶ谷の方はスタンダードで食べやすい、昔ながらの中華そばという感じだった気がする。
 店内には、日本の懐メロかグループサウンズ風の音楽が流れ、幾分小ぶりの丼から、シンプルでいて、しかし十分にコクのある豚骨醤油スープが絡んだ麺を啜り上げて食べていた記憶があるのだが、一昨年に東京に行く機会があって久々に訪ねた時は、ラーメンそのものだけでなく、店全体の印象が当時の記憶とは全く違っていた。
 阿佐ヶ谷にはホープ軒以外の目的で行った事は無いので、店は間違い様が無いのだが、これだけ印象が違うというのはどういう事だろうか。単に僕の記憶が、その後の様々な体験によって上書きされてしまったという事なのだろうか。
 自分ではしっかりと記憶していると思っていても、人間の記憶とはかなりあてにならないものであるという事を、改めて思い知らされたものである。

 その中村橋と阿佐ヶ谷を結ぶバスの、中村橋側の終点の辺りに、僕が引っ越して来た頃、小さなラーメン屋があった。名前はもう憶えていない。
 最初にその店に入ったのは、休みの一日、たまには地元の町でのんびりと過ごしてみようと考えた時で、翌週の為の食料の買い出しを西友で済ませて千川通りに出たところで、ちょうど通りの反対側にある、その店の暖簾が目に留まったのである。
 見るからに地元の食堂然とした雰囲気のその店は、昼からビールでも飲んでラーメンを啜ろうと思っていた僕の気分にぴったり合っている様な気がした。
 短い暖簾を潜り、古い引き戸を開けて中に入ると、外観からのイメージ通り、昔ながらの食堂そのものといった雰囲気の店内にはテーブルがいくつか並べられ、老夫婦が協力し合って調理と客の案内をこなしていた。
 地味で古臭いながらも、良く整頓されていて無駄なものが無く、簡素で落ち着いている雰囲気が、店を切り盛りする老夫婦をそのまま写した様な佇まいである。
 メニューもまた、単純明快。ラーメンと上ラーメン、そして、それぞれの大盛りだけ。
 僕は一人客だったが、店主のおじいさんの案内に従い、空いているテーブル席に座った。そして、メニューを見て僕が発した一言が、良くなかった。
「ビールは無いんですか?」
「そんなもん無いよ」
 おじいさんには、ビールを飲みながらラーメンを食べる様な人間に対して、明らかに軽侮の念があった。鼻で笑うようなニュアンスを感じ取った僕は、面喰ってしまった。
 取り敢えず「上ラーメンの大盛り」を注文して待つ間も、『休みの日に地元で昼から一杯ひっかけるのも気分が良いだろうと思っていたのに、よりによってどうしてこんなへんつくなおやじの店に入ってしまったのだろう』という後悔の念でいっぱいだった。
 そして暫く待った後、今度はおばあちゃんがお盆に乗せて運んできたラーメンを見て、驚いた。
 白い丼に張られた幾分黄色味掛かった透明なスープに、肉団子と白ネギが浮かべられたそのラーメンは、今まで見た事もない様な淡い色彩と、香ばしく甘い匂いに包まれていたのである。
 そして、その良い匂いを発している綺麗なスープを飲み、麺が唇を通過していく心地よい感触を味わっているうちに、ビールを飲みながらこれを食べようとしていた自分が愚かしく思えてきた。こんな繊細なラーメンを味わうのに、アルコールの刺激と酔いは邪魔でしかない。
 僕がそれまで好んで食べていたラーメンは、こってりしていてボリュームがあり、何よりもチャーシューが旨いのが条件だった。それほどラーメンばかりを食べ歩いていたわけではないが、ラーメンを食べるならチャーシューが旨くて腹いっぱいになるのが良いという様な、かなり偏った嗜好を持っていたのである。
 しかし、その時目の前にあったラーメンは、紛れもなく僕の好みとは真逆の代物で、量は大盛りでそこそこあるが、透き通ったスープにチャーシューではなく、肉団子が乗っている。
 最初は戸惑ったが、一口啜ってみると麺を掬う箸が止まらなくなり、見た目でがっかりさせられた肉団子も、涎が口から溢れ出てしまうぐらい、旨味に溢れていたのである。
 スープにはおそらく鶏ガラと野菜、煮干しなどが使われ、濁りを出さない様に丹念に炊かれていたのではないだろうか。少し縮れた細めの麺に絡んで口の中に入って来る、その透明な液体を舌の上に留めて味わい、噛み砕いた麺と共に飲み下す時の心地良さは、このひと時は他の事に捕らわれず、一心に集中する事を要求している気がした。
 感動とも言えるひと時が終わりを告げると、暫くは静かに余韻に浸り、やがて、その店に漂う雰囲気にすっかり感化された様にゆっくりと支払いを済ませ、静かに引き戸を開け、僕は千川通りの明るい歩道に戻った。
 この時の事は今でも僕の心にしっかりとした印象を残していて、透き通った端正なラーメンに出会うと必ず、この店のラーメンが頭に浮かんで来る。
 別に、比べてどちらが優れているかという事ではない。おそらく、かなり美化されているであろう僕の記憶の中の一杯と、現実の一杯を比べる事など、何の意味もありはしないのだ。ただ一瞬だけ、あの時のラーメンの味を思い出し、懐かしい想いに触れられれば、それで満足なのである。
 
 その店には、その後数回行き、毎回「上ラーメンの大盛り」を食べた。正確に何度という事までは憶えていないが、いつの間にか、行っても開いていない事が多くなってきたのである。
 その当時の僕の自宅は、中杉通りの終点である目白通りとの交差点を抜け、それに続く細い路地の先にあったのだが、目白通りとの交差点に面して、当時たまに顔を出していたShimaという小さなスナックがあった。
 店の常連にラーメン好きの人がいて、そのラーメン屋の事を聞いてみた事がある。
 「あの店は、昼時は並んで食べる事もあるくらい人気があるから、心配しなくても無くなる事はないよ」
と、その人に言われて安心していたのだが、結局そのまま店が開いているのを見る事は無く、いつの間にかそこにラーメン屋があった事さえも判らなくなるほど痕跡は消え、年月が経つと共に、僕の頭の中からも正確な記憶が失われてしまった。
 僕は、何度も通った店でも気軽に店の人と会話を交わすほど社交的な性格ではないので、あの老夫婦にどんな事情があったのかは遂に知る事は出来なかった。おそらく、年を取ったので区切りをつけて引退したのだとは思うが、これが最後と自覚して食べる一杯を味わう事が遂に出来なかったのが、今でも心残りである。

 中村橋での生活は、ちょうど10年間に及んだ。その前に1年ほど、隣の富士見台にも住んでいたので、この界隈で11年以上も過ごした事になる訳だが、その間、西武池袋線が高架になり、富士見台にいた頃に住んでいたアパートのすぐ近くに、練馬高野台駅ができた。
 20年以上の時が過ぎ、一昨年、千駄ヶ谷と阿佐ヶ谷のホープ軒で続けてラーメンを食べた後、あの頃と同じ様に中村橋行きのバスに乗り、懐かしい街を訪ねてみた。
 中村橋に降り立つと、まず周囲の街並みの変化に驚かされた。
 高架下に綺麗なショッピングモールができ、三井住友銀行の前の路地の奥にあった西友が、その中に入っている。千川通り沿いでわずかに記憶に残っていたモスバーガーも無くなった様だ。この付近で全く変わっていないと感じたのは、まだ富士見台にいた頃に痛ましい事件のあった交番ぐらいだった。
 そのまま千川通りを歩いて富士見台に立ち寄ってみた。こちらも中村橋同様、高架下が新しい商業施設になり、駅前はかなり様変わりしていたが、石神井方面に向かって商店街を歩いていくと、以前とそれ程変わっていない事に気付かされた。
 途中、味の横綱という、僕が住んでいた頃はまだ出来て間もなかった店が、見事に年季の入った町の中華食堂になっていた事に堪らない喜びを感じ、そこで久しぶりにタンメンを食べながら、店主と少しだけ当時の話をした。
 その後、中村橋に戻ってまた商店街を散策し、真ん中辺りにある居酒屋でまた懐かしさに浸りながら夕食を摂る。つくづく僕は、懐かしさに飢えているのだという事を思い知らされた。
 帰路、西武池袋線の上り電車で池袋に向かった。
 電車が動き出して間も無く、目白通りと西武池袋線の立体交差で目白通りが上を通っていた頃は、目白通りから遠く豊島園のフライングパイレーツが揺れているのが眺められた事を思い出し、電車の中から覗いてみたのだが、既に日はだいぶ傾き、過ぎし日の懐かしい景色を眺める事は叶わなかったのである。

                         第三話・完

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# by roseagainplz | 2017-04-10 14:35 | 随筆 | Comments(0)

一杯の追憶 (第二話)   

 僕は、生まれてから高校3年までの18年間を、東北地方の田舎町で過ごした。自宅の隣の家1軒隔てた先から、1本の川を経て遥か山際までずっと水田が続く、典型的な農村である。
 家族と共に過ごした年月の中で、特に食事に於いて楽しいと思った記憶は、ほぼ無い。取りたてて嫌な事が無く済んだというのが良かったと思える程度であり、今思い返しても "全く楽しくなかった" という感想しかない。
 その理由のほとんどは、僕が食べるのが遅く、その為、父親にしょっちゅう怒られた事にある。
 食べるのが遅くなる原因は、当時、僕自身も明確には気付いていなかったし、親にしても、単に僕がボケっとしているせいだと思っていただろう。結局、自分がなぜ食べるのが遅いのかという事について、具体的な原因に気付いたのは、今からそれほど昔の事ではない。
 まず、先に自覚したのは、知覚過敏である。
 当時はこの事を、親も含めて他人に話した事は無かったが、リンゴやトマト、長ネギなどをまともに噛むのが辛かった。辛かったというより、出来なかったと言う方が正確である。
 トマトのヘタに近い黄緑色の部分に歯が入るさまや、ミカンやレモンなどの粒々が弾けるさまなど、想像するだけで身震いがしたし、長ネギにしても、火が通って柔らかくなっていたとしても、まともに噛むのは苦痛であった。それらをどうやって飲み込める状態にするかといえば、表面部分を浅く噛めるだけ噛んだら、後は口内の天井に舌で押し付けて、懸命に潰すしかないのである。
 もっと酷い例としては、食事時ではないが、歯磨きの後などで口をゆすぐ際、気泡が口内に当たる感触が気持ち悪いので、水を口に含むときは出来るだけ口をすぼめて空気が入らないようにしていたものである。
 これらの内いくつかは、年月が経つと共に少しづつ克服出来たが、ほとんどは現在に至ってもまだ、消しようの無い嫌悪感が付きまとっている。
 そしてもう一つが、口の中に複数の食べ物を一緒に入れられないという事であった。つまり、一つのものを口に入れたら、それを嚙み砕いて完全に飲み込むまで、次の食べ物を口に入れられないという事であり、その結果、当然食べるのが遅くなるのである。
 自分自身では決してのんびり食べているつもりは無く、厳しい父親が怒り出さないうちにさっさと食べ終えてしまいたいのに、知覚過敏によって口に入れたものが上手く噛めず、その為に次のものがなかなか口に入れられない。終いには、急ごうとすればするほど緊張により唾液が出なくなり、口の中が乾いて余計食べるのが遅くなるという悪循環。
 しかも、自分が食べるのが遅いという事は言われて理解はしていても、その原因が自分の性質にあることなど、当時は全く分からず、それを直す手立ても思いつかなかった。
 この為、家族での食事は、僕にとっては苦痛以外の何物でも無かったのである。
 しかしある日、そんな僕の八方塞がりの状況に、一筋の光が差し込んで来た。
 その日の食卓に出されたのは、出前で取ったうな丼。この、鰻の蒲焼きがご飯の上に乗せられた食べ物こそ、僕にとっての救世主だったのである。
 それは、ご飯とおかずを一緒に口の中に入れる事、一緒に噛んで味わう事の素晴らしさを僕に教えてくれた。その結果、僕はその時の食事に於いて見事に父親より早く食べ終えて驚かせたばかりではなく、それ以降の食事に於いても、僕の食べるスピードは他人のそれと比べて特に遅くはなくなったのである。
 このうな丼の記憶が、幼い頃の家族との食事に於いて、僕が楽しいと感じた数少ないものの中の一つであり、恐らく一番のものであろう。

 そんな時期に読んでいた漫画雑誌に、かなりの長期間、ラーメンをテーマにした漫画が連載されていて、僕にとってはそれが食に対して興味を持つ端緒になった気がする。その漫画は、ラーメンのスープや具材の作り方、麺打ちの工程などをかなりつぶさに描いていて、それによって僕はラーメンという食べ物を知ったと言っても過言ではない。
 しかしその反面、この漫画によって、ラーメンとはこういう物という固定観念を植え付けられる結果ともなってしまった。
 例えば、その漫画ではスープの出汁を、鶏ガラと野菜を煮込んで取っていたので、後に豚骨ラーメンというものを知った時、スープの出汁を豚骨から取るのは、九州地方の特定のラーメンだけだと思ってしまったのである。
 しかし、その漫画が僕にとって最も重要だった点は、美味しそうな匂いが本当に誌面から漂い出て来る様な食材や調理風景の描写によって僕の想像力が搔き立てられ、夕食を腹に詰め込む為の空腹感をもたらしてくれた事である。
 豚骨ラーメンが一般に浸透し、インスタントラーメンまで発売され出した頃から現在に至るまで、醤油、塩、味噌、豚骨という分類がなされている。当時は何気なく受け入れていたのだが、後になって考えてみると、以前からある醤油、塩、味噌は全てカエシの分類であるのに対し、豚骨というのは出汁の分類である。知識のおぼつかない当時の自分には、豚骨ラーメンの味付けは塩なのか何のか、いくら頭を働かせても解けない疑問であった。
 九州の白濁した豚骨ラーメンも、その出汁の色の濃さの為にカエシの醤油の色がはっきりと出ないだけで、基本は醬油ラーメンであることが分かったのは、かなり時が経ってからである。
 それと同じ頃、ラーメンは鶏ガラスープだけではなく、豚骨で取らたものや、両方を同時に用いたものもかなり一般的で、自分自身もその時点で既に色々な場所で食べていたという事も知った。
 例えば、札幌ラーメン。
 僕は高校を卒業して北海道の大学に進学すると同時に、親元を離れて旭川で生活を始めた。大学受験の為に初めて青函連絡船で北海道に渡った時、札幌でラーメン横丁に立ち寄り、ラーメン屋を3軒ハシゴした。
 店は自分で買った観光ガイドブックで探したが、その店を選んだ根拠については全く憶えていない。札幌ラーメンらしい味噌ラーメンの店が2軒と、何故か醤油ラーメンの店が1軒。しかも1軒はラーメン横丁から外れていた気がする。
 そこで食べたラーメンの味は、正直に言うと全く覚えていない。35年も前の話である。ただ、当時はまだ、ラーメンのスープは全て鶏ガラ出汁だと思っていた時期なので、実は豚骨から出汁が取られていたそのスープは、それまで食べたラーメンよりもかなりコクが感じられたという事と、油浮きが多かったという印象が残っている。
 しかし、当時の僕の記憶のほとんどは、北海道の冬が自分が生まれ育った東北と比べても段違いに寒く、特に風が全く違ったという事と、薄暗い店の壁に、誰のものとも判別がつかないくらいにくすんだサイン色紙がたくさん貼られていた事ぐらいである。

 さて、僕の北海道での生活の拠点は旭川であった。旭川でラーメンと言えば、旭川ラーメンである、と言いたいところだが、僕が旭川で暮らしていた80年代初頭から中頃に掛けての間に「旭川ラーメン」という単語を聞いた事はただの一度も無い。
 もちろん旭川にいる間、気に入ったラーメン屋はあって、そこで幾度となくラーメンを食べたのだが、それが「旭川ラーメン」という風にジャンル分けされたものだとは言われていなかったし、僕の周りでそんな話題が出た記憶は一度も無い。ただ、
 「北海道のラーメンは、札幌の味噌ラーメンが有名だけど、函館は塩で、旭川は醤油が主流なんだよ」
と教えてくれた人はいた。
 しかし結局、「旭川ラーメン」という呼称を初めて聞いたのは、その後、東京に移ってかなり時が経ってからである。恐らく、品川駅近くに「品達」が出来た時に、当時、旭川ラーメンの店が入っていて、そこで初めて名前を知ったと記憶している。
 もっとも、その当時は札幌ラーメンと博多ラーメン以外のいわゆる「ご当地ラーメン」は、まだまだ名前が知れ渡っていなかったので、旭川でも特に地元のラーメンに名前を付けて売り出そうとまでは、まだ考えていなかったのかも知れない。他の多くのご当地ラーメンも、地元の人からは、いつまでも「中華そば」と呼ばれていたりするものである。
 初めて実際に旭川ラーメンを食べたのは、更に時が経って名古屋に住むようになってから、千種区にある梅光軒という店に於いてであるが、旭川にいた頃のお気に入りの店よりも、かなり洗練された印象を受けた。
 
 ここで、その旭川でのお気に入りの店について書いて置こうと思うのだが、店名がどうしても思い出せない。
 場所の記憶も定かではないが、日本初の歩行者天国と言われる買物公園の割と大きな交差点から、繁華街の6丁目とは逆の8丁目方向に曲がった所にあり、すぐ近くのレコードと楽器を扱う店に行ったついでによく寄った記憶がある。
 古くこじんまりとした木造りの店内で、茶色く濁ったスープに浸った麺をズルズルと啜ったのはよく憶えている。そしてそれは、それまでに食べてきたラーメンよりも格段にコクと旨味の多い、当時の知識の乏しい僕には、それこそ「何とも言えない」としか言い様の無い美味しさに溢れたものだった。
 当時は、一緒に入った友人達との会話に夢中で、店の雰囲気やラーメンを仕上げる様子などには全く関心を持っていなかったが、配膳はいつも店にいたおばちゃんが一人でやっていたと思う。
 このおばちゃんについては、面白い逸話がある。
 と言っても、この類の話は後に様々な場所で聞くので、その話を実体験として僕に教えてくれた友人自身が、本当にその時、その店で体験したものかは、今となっては多分に怪しい。
 曰く、その店のおばちゃんが、友人が頼んだラーメンを運んで来た時、丼を持つ手の指が淵からスープに入っていたので、
 「おばちゃん、指入ってるよ」
と指摘すると、
 「大丈夫だよ、熱くないから」
と言ったという。また、食べていたらラーメンの中にハエが入っていたので、
 「おばちゃん、ハエ入ってるよ」
と指摘すると今度は、
 「大丈夫だよ、死んでるから」
と言ったというのである。
 どうだろうか。いかにも昭和的な笑い話で、テレビのバラエティー番組でもそっくりな話をネタとして聞いた事があるのだが、これは30年以上も前に語られた話である。もしかしたら、これは本当にその時あった出来事で、それが広まったのではないかという気がしないでもない。
 それはともかく、大学卒業以来、北海道には一度も足を踏み入れていないので、その店や旭川市街、また、当時住んでいた場所など、今はどうなっているのかは全く分からない。
 果たしてあの時食べていた旨いラーメンが、時を経た現在、「旭川ラーメン」として市民権を得たのだろうか。
 そして、あの店は今でも存在するのだろうか。更に、十分に熱いはずのスープに指を突っ込んでも平気で、今のご時世では笑えない冗談を言い放ったあのおばちゃんは、今でも達者にしているのだろうか。
 すぐに飛んで行って確かめてみたいという衝動に、今でもたまに駆られる事がある。

                           第二話・完

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# by roseagainplz | 2017-04-04 16:09 | 随筆 | Comments(0)